徒然なる日々の条々を、六条亭が日記風に綴ります。本屋「六条亭雑記」もよろしく。
 
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【2017. 04. 17 (月)】 author : スポンサードリンク
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待賢門院璋子の生きざま
宮尾登美子の『宮尾本平家物語』をふっと思い立って、読み返している。この中で作者は平清盛が白河法皇のご落胤説をとって書いているが、それに加えて白河法皇の孫の鳥羽法皇の中宮であった待賢門院璋子の、ある意味では自由奔放な、それでいて高貴な男たちを魅了つくした生きざまを生々しく描き出していて、印象的である。

この女院のことは角田文衛氏の『椒庭秘抄―待賢門院璋子の生涯』(朝日新聞社)による精緻な研究成果により、ほぼ明らかとなっていて、宮尾登美子もこの業績によっているところが大きいと思う。白河法皇と祇園女御の猶子とされていたにもかかわらず、養父の白河法皇との関係ができ、崇徳上皇は鳥羽法皇の子ではなく、この二人の間の子供であったことはほぼ間違いないことのようで、鳥羽法皇は叔父子と呼んでいたという。この二人の奇妙な親子関係が後の保元・平治の乱のつながり、結果として平家全盛の武士の時代を招来する引き金になったことは、この女院の生き方をどう評価するか別として、歴史の転換に大きな影響を与えたという訳で、日本の歴史上稀有のことであろう。
【2007. 02. 23 (金)】 author : 六条亭
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歴史のカテゴリーを作ります
今まで書いてきた記事の中でも、読んだ本が歴史小説や歴史に関連するものが多かったことに気がつかれた方も多いと思う。なぜ歴史に関心があるかと言えば、それは現代の人間を考え、語る場合には過去の歴史を知らなければ、その資格はないと考えるからである。人間の歴史は太古の文明を持つ国々の紀元前の歴史から通算すれば、数千年の悠久たるものである。

科学技術の諸発明・発見や医療技術の絶えざる進歩にともなって、人間世界の歴史は格段の飛躍を遂げ、生活環境の快適さは増したが、他方自然生態系の破壊、地球温暖化、公害問題等一概に技術の進歩のみを喜んではいられない。

しかも、科学技術の分野に疎い人間にとっては、進歩の当否の判断は的確に出来ないものの、政治・経済・社会・思想・文化などの面で、果たして人間はどれほど進歩してきたのだろうか?と疑問に思う。19世紀の二度にわたる世界戦争の惨禍を経ても、東西冷戦こそなくなったけれども、局地的な戦争はあちらこちらで続き、アメリカもヴェトナム戦争の苦い教訓を生かすことが出来ない。

だから、人間はいったいどういう歴史的体験を経て現在に至っているのか?そしてその体験をどう生かし、また生かせていないのか?ということを考えるためには、どうしても過去の歴史をひもとくことが必要であると思う。もちろん、以上のような問題意識が最初からあった訳ではない。子供の頃はただ単なる歴史好きだった。なぜ歴史好きだったか?は自分自身今もってよく分からない。おそらく今のゲーム感覚で戦国武将の戦いぶりに興味をひかれたのだろうと思う、まず最初は日本の戦国時代の歴史に読み耽ったから。当然その延長線上で、戦国英雄者の歴史小説を続けて読むようになり、また時代への関心も幕末・明治維新に向かい、そのまま江戸時代から中世、古代と遡るとともに現代へも向かっていった。

高校時代までは日本史へ傾斜していた。それは受験勉強のつめこみで、世界史はカタカナの人名を覚えるのが単に苦手だったためだけだが、大学の授業で世界史の知識不足を痛感して、慌てて通史を読み始めた。大学紛争華やかなりし頃である。当時進歩的思想を声高く滔々と議論する同級生は、私のように受験勉強の知識しかない学生にはまぶしく見え、ただ黙って拝聴しているだけだった。ただ、その刺激のお蔭で、社会科学関係、とくに専攻していた経済学を中心にした本を読むようになった。その過程で、経済原理がすべての人間行動の基礎になっているというマルクス主義史観による歴史が当時全盛だったことは、冷戦終了後の今では夢のような話であるが、ソ連が美化された時代であるから、資本主義から社会主義への移行は当然のごとく語られていた。

だが、マルクス主義史観の視点から書かれた歴史、とくに経済史は詳細な史料考証があればあるほど実証的な歴史として史実には近くなるとしても、統計数字の羅列になる傾向が強く、読んでいて無味乾燥であった。また逆に理論から演繹的に書いたものは独創的ではあるが、歴史はこうなるものだとの予断を持って書かれたものも多く、私のような頭では理解不能な難解な書物もしばしばあった。

しかも、それのみならず歴史を作っているのは人間であるのだが、人間は資本の論理に操られたロボットのような類型的な人間ばかりで、過去の歴史に息づく人間はいったいどこに行ったのだろうか?と、だんだん奇妙に感じてきた。芸術至上主義とまではいかなくても、少なくとも人類が生み出した精神的・芸術的な営みがマルクス主義史観ではまったく評価されていない。事実、旧ソ連では社会主義移行後の文学・芸術は、スターリン独裁という異様な体制の下とはいえ、検閲により表現の自由がなく画一的なものばかりで、見るべき成果はなかったに等しい。ショスタコービッチの沈黙やソルジェニーツィンの国外脱出などはその例証であろう。

マルクス主義史観のよる歴史は端的に言えば人間不在の歴史、自分の内部ではどこかこれは本当の歴史ではない、という気持ちが高じて来たのは止むを得なかった。その時出会ったのが大塚久雄による比較経済史学の諸著作である。彼は人間の営みのもとになっている経済のみではなく、精神・宗教など文化領域も研究しなければならないとして、マックス・ヴェーバーの有名な「資本主義の精神」についての研究も進め、大塚史学と言われる諸業績をもまとめあげた。高度に専門的な論文もあったが、読む者を惹き付ける品位と情熱が行間から伝わってくる著作に魅せられて、岩波書店から出た全13巻の著作集を読んだほどである。

カテゴリーとして「歴史」を作ります、と書くのに思わず年寄りの昔話になってしまい、内容がかなり横道にそれたきらいもあるが、大塚久雄については素人なり読み理解したことをまたあらためて書きたい
【2007. 02. 13 (火)】 author : 六条亭
| 歴史 | comments(0) | trackbacks(0) |
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