国立劇場が、その開場四十周年記念公演の大きな目玉として、十月から三ヶ月にわたって真山青果の畢生の大作『元禄忠臣蔵』を通し上演した舞台は、各月とも大入りで興行的にも大成功であったばかりではなく、出演する役者も必ずしも十分に揃っていたとは言いがたかったにもかかわらず、概して高い水準の成果をあげていた。また、歌舞伎公演には珍しく男性観客の姿が多数目立った三ヶ月でもあった。これも主君の遺恨を晴らすという忠臣蔵劇そのものが、判官贔屓と同じように日本人の心情に奥深く根付いている証拠であろうか?
これはたとえ原作が昭和初期に発表された新歌舞伎とはいえ、開場以来古典歌舞伎の復活通し上演を主にしていた国立劇場ならでは企画の勝利であり、まことに記念事業に相応しい壮挙と称えても過言ではないであろう。
全十篇を次の三部に分けての上演は、戯曲の内容から言って、至極妥当であり、まったく異論はなかった。
第一部 … 『江戸城の刃傷』『第二の使者』『最後の大評定』― 内蔵助:吉右衛門 刃傷から城明け渡しまでで、内蔵助が公儀に刃向かう決意を固めるまでの苦衷。
第二部 … 『伏見撞木町』『御浜御殿綱豊卿』『南部坂雪の別れ』― 内蔵助:藤十郎 討ち入りの決意を固めながらも思い悩む内蔵助とその周囲の姿
第三部 … 『吉良屋敷裏門』『泉岳寺』『仙石屋敷』『大石最後の一日』― 内蔵助:幸四郎 討ち入り本懐を遂げた内蔵助たちが切腹を申し付けられるまで
ただし、上演時間約四時間前後という制約があったのであろうから、ある程度の原作のカットは止むを得ないと思うものの、第一部から、二部、三部となるに従い、カットの場面が多くなり、その分折角の原作の豊穣で多面的な世界が薄まり、とくに第三部は内蔵助をはじめとした赤穂の浪士たちが浮き上っていたきらいが無きにしもあらずであった。元々青果がこの作品を書いた狙いは、片手落ちで不当な処断をくだした公儀に対する内蔵助の反逆である。通常の忠臣蔵と異なり、吉良上野介がまったく登場せず(第一部でちらりと刃傷後の姿が見えるのみ)、ゆえに史実はどうあれ、何故浅野内匠頭が吉良に対して刃傷に及んだかの理由すら、一切語られていない。あくまで内匠頭の無念とその無念を吉良の首級をあげることにより晴らそうとする内蔵助たちに焦点を充てて描く。同時に、甲府宰相綱豊卿の口を借りて、当時の世間の赤穂浪士たちに対する同情の眼差しを描いている。だから、周囲の浪士たちへの目を描かないと独りよがりにも見えてしまう欠点がある。第三部はそのあたりが、原作のカットによって露呈したのは残念に思えた。
このような内蔵助は、とても難しい役であったろう。第一部の吉右衛門は、最後の最後まで己の本心を明かさず、じっと絶える演技ばかりである。吉右衛門がテレビのインタビューで「毎日演じていてとても疲れる」と言っていたのは、本音であったろう。それまでの耐えに耐えた思いを爆発させるような本音の決意をもらして、花道の引っ込んでゆくことで、観る方も救われる。正直、吉右衛門で第二部、第三部と全三部を通して観てみたい思いは今でも強い。
第二部の藤十郎の内蔵助は、最初発表があった時ニンではないと思ったが、ご舎弟浅野大学の大名への取立てによる家名復活の公儀への請願をしながらも揺れ動く内心を覚られないように伏見撞木町で遊蕩する内蔵助には、ぴったりだった。一転して、南部坂雪の別れでは、討ち入りを目前に控えた男の清々しい凛とした姿を見せてくれた。恐らく昔映画で観た長谷川一夫に内蔵助とダブって見えていたように思う。第二部の伏見撞木町での上方風の演出は、『仮名手本忠臣蔵』七段目『祇園一力茶屋』にあたるから、成功だったように思う。またこの場を上演頻度の高い名作である『御浜御殿綱豊卿』とあわせて観ることによって、青果の目指した戯曲の奥深さがより立体的に理解できたように思う。
第三部の幸四郎は、討ち入り後の内蔵助であり、『大石最後の一日』はとくに幸四郎が得意とする定評のあるものである。最後の花道での「これで初一念が届きました」という台詞は、この場のみを観たのでは分からないような心の奥底からの痛切な言葉であることを実感させてくれたが、逆に前の二人の内蔵助を観た目からは、もう少し晴れやかで、また春風駘蕩とした雰囲気も欲しいと思ったのは、贅沢なことなのであろうか?
青果の台詞は、目で追って読むのみでも日本語としても非常に格調高いものであるから、その長台詞を朗々と謳いあげるのは、慣れない役者たちにはさぞや苦労もあったろうと察せられるが、十二分にその苦労に見合う成果が上がっていた舞台だった。今はとにかく三ヶ月の長丁場を無事大入り満員で終えた舞台関係者に、お疲れ様でしたと感謝の言葉を記しておきたい。