徒然なる日々の条々を、六条亭が日記風に綴ります。本屋「六条亭雑記」もよろしく。
 
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【2018. 08. 18 (土)】 author : スポンサードリンク
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若手育成の場ー歌舞伎フォーラム公演の危機
本31日から江戸東京博物館などで上演される第21回歌舞伎フォーラム公演は、主催元のNPO法人が累積した赤字のため、次回以降の公演が危ぶまれている。

読売新聞記事

実力派の若手が本公演と同じ衣裳、かつら、舞台装置を使って、低料金で歌舞伎を分かりやすく見せようと続いてきた公演、是非とも多くの方々にみていただき、存続出来るようにしてもらいたいものである。また、若干でも料金の引き上げも検討してもよいと思う。

日本伝統芸能振興会HP

拙ブログ記事は、こちら

【2007. 01. 31 (水)】 author : 六条亭
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通し狂言『梅初春五十三驛』の感想(その二)
昨日に続き、通し狂言『梅初春五十三驛』の感想の二回目。二回に分けるほどでもなかったのであるが、一度で書くのはやや息切れがしたためである(笑)。

四幕目 【由比】「入早山の場」、【吉原】「富士ヶ根山の場」

菊五郎は今度は小夜衣お七という伝法できっぷの良い飯盛り女(宿場女郎)で登場。惚れて入れあげている弁長を籠絡して、海に突き落として宝剣を奪う。三津五郎の弁長が好色な所化を戯画化して演じ、笑わせる。海に突き落とされる場面は、後ろ向きに思い切り飛んで落ちる。

菊五郎はこの年増の女郎役がぴったりで、姉を探しながら主の白井権八を案じる旧臣の若衆吉三郎(菊之助二役、実はお七の弟)を誘惑しようとするところは、あやしい雰囲気がある。菊之助は早替りで権八になり、囚われの駕籠から抜け出す。お七はそれを助けて木戸を開けさせようと、火の見櫓の鐘をうつ。これはもう言うまでもなく、完全な八百屋お七のパロディである。

大詰 【大磯】「三浦屋の寮の場」、【品川】「鈴ヶ森の場」、【江戸】「御殿山の場」、「日本橋の場」

三浦屋寮の場は権八・小紫の世界であり、二人の他愛無い痴話喧嘩とお大尽実は助八(亀蔵)との争い。これが一転して「ご存知鈴ヶ森」の場面に変わり、前の場面は実はお七の見た夢だったことになっている。これは権上と言われる権八・小紫の上の巻の上演機会が最近ないため、ご存じない方も多いようであるが、これも権上から権下に一瞬にして変わる場面のパロディである。そこへ権八の首を抱えた小紫が現れ、お七が声をかける。それが、お七が「お若いのお待ちなせえやし」、小紫が「待てとお止めなされしは」という有名な台詞であるのは、鈴が森を女形版に置き換えていて秀逸である。これは歌舞伎をあまり知らない方でもどこかで聴いた台詞であり、知っている方にはなおさら面白い洒落た趣向であったと思う。そこへ権八が現れて、吉三郎が身代わりとなったことが分かる(ただし、前場を観る限り、お七が吉三郎を弟と気づいた場面または暗示するようなところがなく、権八のために身代わりになったというのは少し飛躍があるように思う)。

「御殿山の場」は、既に触れたように舞台の奥行を使った装置が歌舞伎の舞台としては新鮮で、咲き誇る夜桜と桜吹雪のなかでの立ち回りは幻想的な美しさに溢れている。立ち回りも捕り手一同がチームワークもよく躍動的で、彼等も国立劇場特別賞を受賞したのも頷ける。

「日本橋の場」は、この通し狂言の宣伝チラシですごろくになっているものがあったが、ちょうどその上がりにあたる場面である。義高と大江家の侍四人にからみの後、三津五郎、時蔵、松緑、菊之助が打ち揃って、華やかに幕。

全体としては短いエピソードを積み重ねていて、一つ一つの場面は食い足りないところもあったものの、もともと初春興行らしく肩の凝らない面白さを目指したこの通し狂言は、先行作品のいいとこ取りをしていて、書替えが通例だった江戸歌舞伎はこのように楽しかったであろうと思わせた。まずはその狙いを十二分に果たしたものと言えよう。菊五郎の復活狂言は、これからもどんなものを出してもらえるか毎年の国立劇場での公演がますます楽しみになってきた。
【2007. 01. 30 (火)】 author : 六条亭
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通し狂言『梅初春五十三驛』の感想(その一)
初日と昨日書いた内容と若干の重複があることはご容赦いただいて、今回の国立劇場初春公演の通し狂言『梅初春五十三驛』の感想を二回に分けて、まとめておきたい。

五十三驛ものと言えば、猿之助が復活した『独道中五十三驛』は有名であるが、残念ながら私は観ていない。したがって今回の通し狂言とどの程度異なっているのかはよく分からないが、『梅初春五十三驛』は伝わっている台本も少なく、また昔の芝居は一日がかりで上演するような膨大なもので、かつ登場人物も錯綜したものだったようだから、今回相当補綴の手を加えて現代の上演形態にそった形にまとめあげたと思われる。それでも、上演時間約三時間半、主役で全体を束ねた菊五郎は実に四役の八面六臂の大活躍、その他の主役級の役者も入れ替わり立ち代わり二役から三役を演じているから、顔のこしらえから衣裳の着付けまでさぞかしてんやわんやだったと思う。それでも全五幕十三場(実際には十六場ともいえる)は、短い時間のものも含めて五回休憩が入ったが、初日に比べると観る方も二回目とあって楽日は非常にテンポも良く感じられた。木曽義仲の子息清水冠者義高とその許嫁で頼朝の娘大姫、白井権八などが宝剣をめぐって、京都から東海道を下ってゆく話を主筋にして、各地で起こる事件をエピソードの連鎖で面白く構成していたと思う。

序幕 【京都】「大内紫宸殿の場」、【大津】「三井寺の場」

物語の発端であるから、「大内紫宸殿の場」はこれからの物語の背景をうまくまとめ、また「三井寺の場」では頼豪阿闍梨の霊が義高に鼠の妖術を授ける。その後主役の登場人物をほぼすべてをだんまりで出し、これから起こる話を予告している。このだんまりでは、珍しく捕り手二人がからみ、途中から姿を消した菊五郎の義高が巨大な鼠に乗って花道へ引っ込んでゆくところは迫力があった。團蔵の範頼が古径な印象。彦三郎の頼豪阿闍梨は凄みが不足している。

二幕目 【池鯉鮒】「街道立場茶屋の場」、【岡崎】八ツ橋村無量寺の場

ここでは菊五郎家のお家芸の怪猫(猫石の精霊)のホラーがみものであった。ただ、当代の菊五郎の場合その芸風からか最近は軽妙な役があっているため、もっと怖くてもいいくらいであるが、さすがに貫禄がある。しかし、何よりも見事だったのは怪猫の操るままに体操選手のようなアクロバチックで、切れのよい技を次々と見せた茶屋娘おくらの吹き替えで出た尾上辰巳である。この吹き替えで国立劇場の一月の優秀賞を受賞したのも当然であろう。このような吹き替えは役の性質上筋書きにも名前が出ない地味なものであり、それが脚光を浴びたことは素晴らしいことである。尾上辰巳ブログはこちら 

また子猫に扮して可愛いぱらぱら踊りを披露していた子役たちもあわせて特別賞受賞の対象になったのも微笑ましい。

初春歌舞伎公演 国立劇場賞のお知らせ

さて肝心の茶屋娘おくらであるが、最近進境著しい梅枝。口跡も爽やかで、甲斐甲斐しいけなげな娘ぶりであった。

三幕目 【白須賀】「吉祥院本堂の場」、「同 裏庭の場」

村人たちが車引を演じる田舎芝居のドタバタ劇である。田之助のようなヴェテランから團蔵、松緑などが楽しそうに演じていた。所化弁長の三津五郎と三津右衛門で義太夫の語りと三味線を聴かせるのは本職顔負け。楽日は三津五郎が語り出す前に、「大和屋」と大向こうから声がかかり、三津五郎がそちらに向かってありがとうというポーズで手を上げたのも楽日ならではか?

白井権八の菊之助が三宅坂菊之助という女形に扮して同じく小梅の松也と一緒に花道から登場すると思わず観客席からため息が…。今回の菊之助の二役は立役であるが、それほど菊之助の姿が目の覚めるような、輝く美しさがある。松也は花道では控えめであるが、田舎芝居では思いっきりはじける。どうもそのギャグは本人に任せられていて日々変わってきていたようだが、少し浮き上がった時もあったようである。しかし、たらこの千穐楽ヴァージョンは大受けであった。

三幕目 【新居】「関所の場」

新居の関での白井権八の詮議を松緑の宗茂が爽やかでまた情のこもった裁きぶりで、今月の三役中一番の出来である。菊之助も御高祖頭巾の町娘実は権八の変わり身が鮮やかである。この後に菊五郎、時蔵の大姫と三津五郎の根の井小弥太にそれぞれ乗った船が海中で行き逢う舟だんまりがある。ここは二艘の船が本舞台と花道を行き交う面白さを楽しめばよいのだろうが、ややなくもがな印象があった。
【2007. 01. 29 (月)】 author : 六条亭
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通し狂言『梅初春五十三驛』の楽日観劇
昨27日に国立劇場開場四十周年記念公演の一つ、通し狂言『梅初春五十三驛』の千穐楽を観劇してきた。詳しい感想は明日以降追って書く予定であるので、今日は簡単に要点のみ。

国立劇場で菊五郎が菊五郎劇団と続けてきた恒例の復活通し狂言も、昨年の『曽我梅菊念力弦』に引き続き、今年も初春歌舞伎として五十三次ものが選ばれた。初春らしく「理屈抜きで、面白く明るく」という菊五郎の言葉通り、復活狂言とはいえ、補綴の言葉を筋書で読む限り、原作を活かしながらも、かなり手を入れた新作狂言と言ってもいいほどであり、肩の凝らない面白い仕上がりになっていた。

とくに千穐楽は出演する役者自身が楽しみながら、自分の持てるものをすべて出して、観客にも楽しんでもらおうというサービス精神に溢れていて、観ていて気持のよいものだった。全五幕十三場は五十三驛にかけた洒落らしいが、実際には場面転換を入れれば十六場とも言える。しかし初日に感じた中だるみもなく、非常にテンポよく進んでいた。期待していた(?)松也の三宅坂小梅は、たらこスタイルの赤い被り物で、帯の間から千穐楽の垂れ幕を出して踊る大サービスの楽日ヴァージョン。亀蔵の亡者にかじられて、逃げ回っていて、観客は大爆笑だった。

また菊五郎の小夜衣お七と猫石の精霊は、顔のつくりやそのきっぷのよさは、昨年十二月の『出刃打お玉』を思わせた。ご存知鈴ヶ森をお七と小紫の女形のヴァージョンに変えたのも秀逸で、思わずにやりとさせる楽しさだった。御殿山の場の歌舞伎の舞台としては珍しい奥行きを使った菊之助の立ち回りは、絢爛たる夜桜の舞台装置とともに、その美しさは比類がないものだった。日本橋の場も歌舞伎のお約束の絵面の見得で、主役五人と四人の侍(亀三郎、亀寿、松也、萬太郎)で豪華に決まった。
【2007. 01. 28 (日)】 author : 六条亭
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歴史小説と歴史叙述をめぐって(雑感)―司馬遼太郎を中心に
以前書いたように司馬遼太郎の短編小説を読んでいると、どこまでが小説かどこまでが歴史的叙述かが曖昧になってくる。とくに初期の自由奔放な作品を除けば、司馬遼太郎は主に戦国騒乱期、幕末と明治維新など歴史的動乱期の代表的な人物を主人公にしたいわゆる歴史小説を多数書いてきた。しかし、伝奇的小説から出発した彼の小説は、徐々に虚構性を廃し、歴史的事実の考察を行う歴史をめぐるエセー、または歴史講談的な色彩を帯びてくる。

そのような小説を書くため、膨大な文献を渉猟しており、今その蔵書ごと記念館になっているほどである。そこで展開される歴史に対する鋭い切り口と考察は、ご本人はいやがったようだが、司馬史観と呼ばれた。司馬遼太郎の語り口は俯瞰的な視点からの描写とともに、いかにも脱線と思えるような余談の連続がきわめて特徴的である。だから、長編小説としての結構、というか構成力に欠ける部分があることは否めない。しかし、その次から次へと繰り出される余談がある意味では格段に面白く、しかもその余談が作品に幅と奥行を与えていて、司馬作品の価値をなお一層高めていると思う。

代表作の一つ『竜馬が行く』も後半になるにしたがい、史実の部分が増えて来るものの、当初竜馬が江戸に行く際一緒になる寝待の藤兵衛などは、完全に創作上の人物である。だから、『坂の上の雲』の世界を通過した目からは、創作の部分と史実の部分が乖離して見え、世評ほど『竜馬が行く』は司馬作品のなかではランクが高くないと思っている。その独特の語り口で紡ぎ出される司馬史観は、後年司馬遼太郎をして次第に小説家から一種の文明批評家へと変貌させたように見えた。その結果、晩年は『韃靼疾風録』を最後にまったく創作の筆を絶ってしまったことは大変残念なことであった。

しかも、司馬史観を云々されるにつれて、左右双方の歴史家からその歴史観について批判があった。いわく明治史を肯定しながら、昭和史を否定する矛盾がある。権力者に対する評価が甘いなどである。しかし、歴史家としての批判は自由であるが、司馬遼太郎はあくまで小説家であって歴史家ではない。だから、自分たちの学問のフィールドで史料批判が厳密ではないというのはあたっていないであろう。逆に司馬遼太郎が歴史家では出来ないような発想から、歴史の斬新な見方・とらえ方を提示して、ややもすると戦後の進歩史観の立場から書かれた人間不在の通史に飽き足らない思いを持っていた多くの人々に迎えられたという事実は、歴史家たちは厳粛に受け止めるべきであろう。

そういう意味では司馬遼太郎の作品に批判的ながらも、歴史家色川大吉は武相・三多摩地区の地方史研究から出発して、歴史の下層に埋もれた知られざる魅力的な人間たち(豪農層をも含む)を発掘し、民衆史の視点から明治維新に関するいくつかの著作を著しているのは異色とも言える。豪農の蔵に眠っていた多くの古文書から、一個人が書き上げた憲法草案まで掘り起こしているのである。そこには紛れもなく、人間の息吹が感じられる明治の歴史の一こまがある。色川氏は最近刊行された『定本 歴史の方法』(洋泉社)で、歴史家として自己の著作を題材にして歴史叙述の方法を検証しているのだが、その方法は司馬遼太郎のような歴史小説家の営みとの違いがほとんど感じられないというのが正直な感想である。
【2007. 01. 26 (金)】 author : 六条亭
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雑誌『演劇界』が一時休刊へ
『演劇界』が一時休刊へ(zakzak記事)

歌舞伎を中心とした演劇雑誌の老舗『演劇界』が、3月末の5月号の発行で一時休刊するという報道があった。小学館が演劇出版社の株を保有するのを機会に判型をあらためてリニューアルするという。

しかし、『演劇界』は歌舞伎を扱う貴重な月刊誌であるが、正直なところ最近は価格が高い割には、劇評のみが中心で特集など内容が物足りないことが多かった。しかも活字離れに加えて、ネットによる情報の伝達度の速さは、月刊誌の役割が色褪せてきたことは否めない。そういう意味では経営状況もあまり芳しくないのであろう。看板の劇評も毎月の公演があいて間もない頃に観劇したものを劇評家がまとめている(しかも劇評家も同じ顔ぶればかりで新鮮味が乏しい)のだから、後半に向って役者がいろいろと工夫して改善していったものが反映されているとは言い難かった。

この際リニューアルするにあたって、もっと歌舞伎好きにも好んで読まれるような編集方針で臨んでもらいたいものである。
【2007. 01. 25 (木)】 author : 六条亭
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日本唯一の時代・歴史小説の専門店「時代屋」
「歴史時代書房 時代屋」

最近は神田の古書店街にはとんと足を運ぶ機会がなかったので、ある雑誌ではじめて知ったのだが、神田小川町に昨年の2月から時代・歴史小説の専門の新刊書店「時代屋」がオープンしているという。

店頭に鎮座する戦国武将の甲冑、店内一杯にずらりと並ぶ時代小説・歴史小説、店員さんも和服姿。ファンにも大好評で売上げも上々とか。私も時代・歴史小説のファンを自認している以上、是非行ってみたいところである。きっと店内をなめるようにして、本を探して、たくさんの本を買ってしまいそうである(^_^;)。
【2007. 01. 24 (水)】 author : 六条亭
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シネマ歌舞伎『京鹿子娘二人道成寺』を観る(1回目)
東劇で上映中のシネマ歌舞伎を18日に観てきたので、やや日にちが経ってしまったが、その簡単な感想。

基本的な感想は舞台観劇時とは変わらないので、舞台との違いのみに絞って簡単に記す。

○ 映像ならではの二人花子を強調する仕掛け

映像化にあたって映像でなくてはできないマジックがある。これについては賛否両論あるようだが、私は舞台とまったく同じではない映像作品として仕上げた以上、それは積極的に容認されるものと思う。一つ例をあげれば、所化問答で実際の舞台では菊之助一人が演じたところでは、一瞬花子が玉三郎に切り替わる場面がある。この映像は2003年1月歌舞伎座の舞台で玉三郎が踊った時のものを挿入したと推測されるが、映像的にもまったく違和感はない。二人花子が実は一人であることがより強調される効果があった。

○ 歌舞伎座では体験できないようなカメラアングルと鮮明な映像

映像であるから当然のことながら、実際の舞台の観客席からは観ることができないようなカメラアングルのものが、大変鮮明で美麗な映像で目に入ってくる。またクローズアップは、芳醇な成熟の美を見せる玉三郎と初々しさと若さ溢れる美しさの菊之助の二人の表情とそのしなやかな踊りを細部までくっきりと映し出していて、生の舞台何度観ていても映像に惹き付けられてまた違った興奮を呼ぶ。

○ 鮮烈な高音質

また、シネマ歌舞伎の特徴として、音が大変鮮烈ともいえるほどの高音質であり、名曲である道成寺の唄、三味線、お囃子がとても迫力ある臨場感をもって観客を包み込むように聴こえてくる。これはまさに生の舞台では体験できない映画としての歌舞伎である。

このシネマ歌舞伎では二人花子は、どちらかと言えば、生の舞台より菊之助が光で玉三郎が影の点が強調されていて、菊之助の花子の映像部分が多いように感じられる。これは編集に関わった玉三郎の意向を反映しているのだろうが、それも上に書いたような映像の仕掛けにより、菊之助の花子は玉三郎の花子と重なり、えも言われぬ妖しくもまた幻想的な美しさを醸し出しているである。シネマ歌舞伎は生の舞台とは決して同じではない。しかし、この映像化によって、歌舞伎座での二回(50日間)の公演を観ることができた人もできなかった人も、『京鹿子娘二人道成寺』を気軽にその美しい映像で楽しみ、歌舞伎舞踊の魅力を知るには格好の映像である。
【2007. 01. 23 (火)】 author : 六条亭
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野口達二『歌舞伎』を読む
これは新刊でない。昭和40年に初版が発売された歌舞伎入門書である(文芸春秋)。たまたまお知り合いの方から書籍を整理していたら出てきたので、もしよろしければお読み下さいと頂戴したものである。今では絶版であるから、歌舞伎の書籍を専門に扱う古書店でしか手に入らないものだろう。

気安くいただき、読み始めたら、これはなまなかの歌舞伎入門書とはひと味もふた味も違うと分かってきた。まずモノクロではあるが、歌舞伎のあらゆる側面からの鋭い切り口での適切な解説とともに、解説と一体化した写真が豊富であることが第一の特色である。それも、例えば立役と女形の顔の作りから衣裳の着付けまでを、現富十郎と藤十郎をモデルにして、逐一追っている写真があり、それを見れば自ずと素顔からの変身振りが手に取るように分かる。

またその写真も今となっては珍しい狂言の場面や亡くなった名優の貴重な写真も多く、伝説の名優の容姿の素晴らしさもなるほどと納得する。とくに十五代目羽左衛門、七代目幸四郎、そして十四代目仁左衛門を追贈された我童(この方の晩年の上方特有のはんなりとした色気には驚いた記憶がある)などは、その実際の舞台を観たいと思わせるパワーがある。また私がその個性を好んだ市川寿海や実川延若の写真も多いのは嬉しいものだった。

出版年次から言っても、この時代の歌舞伎を担っていたのは、立役は十一代目團十郎、八代目幸四郎、二代目松緑、十七代目勘三郎であり、女形は六代目歌右衛門、七代目梅幸であることは言うまでもないが、いろいろな役の写真は立役は團十郎と松緑、女形は歌右衛門が圧倒的に多い。著者の好みなのだろうか?それにしても当時の歌舞伎の女形はまさに歌右衛門なくしては成り立たないような感すらある。しかし、私の個人的な好みを言えば、歌右衛門の女形の芸が戦後の歌舞伎の屋台骨を支えたものであったことは十分認めたうえで、しかし現在の方が雀右衛門、芝翫、玉三郎、時蔵、芝雀、福助から若手の菊之助、亀治郎、勘太郎などまで女形は多士済々であり、彼らの精進と活躍が今の歌舞伎をますます面白くしているものと思う。
【2007. 01. 22 (月)】 author : 六条亭
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第五回夢玉BBSオフ会と夜の部観劇
昨20日は自分がお世話役の一人となって開催した「夢の女・玉三郎 BBS」の第五回オフ会の日。途中参加の方を含めて、延べ20名のご参加者を得て、大変賑やかに開催することが出来た。同じ役者さんを贔屓にしていると話の種は尽きず、あっという間に時間が過ぎてゆく。まだ語り足りない様子の方々を残して、夜の部観劇組は、そのまま歌舞伎座へ。

さすがにオフ会で飲んだビールがなかなか抜けず、申訳ないが『廓三番叟』は途中かなり気持ちよく意識不明(^_^;)。『金閣寺』からしっかりと観るつもりが、玉三郎の出番以外は時々怪しくなった。それでも、爪先鼠の場面はしっかりと観る。前回より桜の花びらが多く降っていたようだ。もっとも時々固まってどさっと落ちていたが。

『鏡獅子』は、勘三郎の踊りがさらに気力充実していて、獅子の精は迫力があった。『切られお富』は、有名な『切られ与三』の女に書き替えたものであるが、狂言としてははじめて観た。今回若干台本に手が加わっているようで、単なる書き替えものに終わらず、お富はいわゆる悪婆になっているから、狂言としては面白いと感じたが、福助のお富は少し張り切り過ぎで、演技過剰。観ている方も落ち着かない。
【2007. 01. 21 (日)】 author : 六条亭
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