六年前の前回の『三人吉三』の舞台を観ていないから、今回の再演は大変期待したものであった。事実楽しみながら観劇してきた。だが、その感想をまとめようとすると、はたと困惑して感想が整理できないまま一週間が経ってしまった。それは何故か?恐らく三年前の團十郎、玉三郎、仁左衛門の大顔合わせによる『三人吉三巴白浪』の観劇体験が大きいのだと思う。
それは真女形の玉三郎がはじめて挑んだお嬢吉三であり、はじめこそ戸惑った風に見えた玉三郎が作者黙阿弥の意図した通りの男とも女ともつかない両性具有のあやしい倒錯的な世界を、とりわけ仁左衛門のお坊とともに吉祥院の場で作り出していたからである。そして、大詰めの雪の中の立ち回りも今までの常識を越えた激しさだった。
だから、その強烈な印象が自分のなかで『三人吉三』の一つの理想像を形成してしまっているようで、どうしてもそれと比較して他の『三人吉三』を観てしまうようだ。したがって、今回のコクーン歌舞伎『三人吉三』の感想も、そのような偏りがある点をあらかじめお断りしておきたい。
このコクーン歌舞伎の上演では、有名な「大川端庚申塚の場」より以前の物語を、大変要領よく、また江戸庶民のある意味では猥雑な雰囲気を的確に描いており、それでなくとも錯綜かつ時代離れした話が今の観客にも分かり易く整理されているのは演出の串田和美の腕である。最初は幕が開いたままとなっており、暗闇の中で真っ白い犬が舞台を通り抜けたり、庚申丸を安森家から土左衛門伝吉が盗み、犬を斬り殺す発端が示される。犬にまつわる因果噺がこの話の主題の一つであるから、うまい手法であると思う。
一旦幕が閉まった後、本当の序幕がはじまるが、勘三郎の太郎右衛門や橋之助の海老名軍蔵、亀蔵の研師与九兵衛がからんでややドタバタ劇のような展開が続く。勘三郎の「申告します」というような自虐ネタや平成中村座のN・Y公演を意識しての英語での台詞、亀蔵の若大将ネタなどが平場席で次々と繰り出されるから、観客席は笑の渦である。しかも、橋之助は出っ歯で口に綿を含んで声まで変えているから、一見して誰だか分からないくらいだ。しかし、ここまでやる必要がある場面かとも思う。そのなかで百両を懐中にした勘太郎の十三郎と夜鷹おとせの七之助の娼妓宿での出会い、争いに巻き込まれての百両紛失までは、コクーンという劇場機構と照明を生かした工夫で、江戸下層社会の庶民の姿をあぶりだしている。夜鷹に小山三や芝喜松が出ているが、二人が舞台にいるのみで、生活感がにじみ出ているのはさすがである。今回勘太郎と七之助は、双子の兄妹とも知らず畜生道に落ちる(近親相姦)の役ながら、とてもしっとりと情のあるいい取り合わせである。この二人の禁断の恋が今回の話のメイン・ストーリーのようにも思えてくる。
ようやく「大川端庚申塚の場」になるが、ここでも有名な「月も朧に〜」の名台詞も福助のお嬢吉三が舞台の後ろ向きになっているところからはじまり、舞台が回って正面を向くという意表をつく演出法が取られている。これはそれなりに斬新であるが、そのためにであろうか、お坊吉三が駕籠に乗って登場しないのは、やはり絵にならないと思う。また、お嬢の出の際、福助は男が娘に化けていることを強調したいのは分かるが、口跡をお嬢さん風に作り過ぎるように感じられる。もっと普通の女形の口跡でよいのではないか?
伝吉役は笹野高史、台詞も演技も歌舞伎としてみれば渋く、はじめは周囲の役者とはそぐわず、浮いているように感じられたが、次第にそれは計算された演技であることが明らかとなる。十三郎とおとせが実は自分の生した双子の兄妹と分かり、その遠因が己にあることを覚ってからの苦悩は深く、大きい。串田和美が起用した狙いは当たっているのであるが、しかし、この狂言の現代性をより強調した結果となっていて、歌舞伎としての好き嫌いは別れるところだ。
勘三郎の和尚吉三は、貫禄といい、伝吉に対する気遣い、十三郎・おとせへの兄としての愛情などまことに申し分ない出来である。橋之助のお坊と福助のお嬢は、吉祥院の場が意外とあっさりとしていて、二人の同性愛的な部分が見えにくい。また裏手墓地の場の和尚による十三郎・おとせの殺しの場面は、あってもよかったように思う。
大詰めはお坊とお嬢の割り台詞も、両花道を使えばこその面白さであり、同じ舞台上では歌舞伎としての情緒は乏しい。だから、今回の公演はあえて言えば、『三人吉三』よりも、彼等をとりまく人間たちのドラマにより力点が置かれていると感じた。
大詰めはそれまでの暗闇が支配した世界から、一転しての一面の雪で真っ白な世界であり、大立ち回りもドカ雪のごとく舞い落ちる雪の中での激しいもの。まさに吹雪のごとく荒れ狂う立ち回りのなかで三人が折り重なって倒れるラストシーンは見ものであった。