26日の千穐楽夜の部観劇の簡単な感想。初日は三階席下手寄りだったが、今回は一階二等席の真ん中からやや下手寄りの席である。
なお、初日観劇の感想は
こちら。
『阿古屋』
今回は阿古屋が捕手たちに囲まれて、花道から出てくるのがとてもよく見える席だったが、大ぶりの伊達兵庫の鬘、豪華な裲襠と俎板帯などを間近に観ると、玉三郎の冴え渡るような美貌と五條坂の游君としての格の高さを示す大きさをあらためて実感する。そして七三で決まる見得も、捕手の六人ともどもそれ自体が一つの絵になっている。
責めの三曲演奏も、初日よりさらに手に入った演奏ばかりで、美麗かつ清澄な音と歌には聞き惚れるばかりだった。一番難しそうな胡弓(これは重忠の台詞からも分かるように弾くのではなく、「擦る」というのが正しい)が、もっとも闊達自在に演奏していたように思う。もちろん、琴、三味線も景清を偲びながらのこの演奏、並大抵の技量と集中力なしではできないものであろう。義太夫と長唄との掛け合いもますます息が合っていた。
吉右衛門は、瞑目してじっと演奏に聴き入る姿一つとってもこの捌き役の情の篤さが全身から滲み出ているようで、その明晰な口跡とあわせて、現時点での最高の重忠であると思った。段四郎の岩永も人形振りがより大きく感じられ、語りの泉太夫の熱演もあって、悪役でありながら滑稽なこの役の存在感がよく出ていた。染五郎はかって一度重忠を演じているが、吉右衛門の重忠を勉強する機会と出演した榛沢六郎、じっと座っている時間が長く、ある意味で辛抱役ながら、音楽裁判劇とも言うべきこの狂言での重要な役割を立派に担っていた。
こう観てくると、初日から大変完成度が高かった『阿古屋』だが、やはり千穐楽ならではのさらなる高みに達していた舞台だったと思う。
『身替座禅』
この日は、NHKのテレビカメラが入っていて、この身替座禅から撮り始めたからであろうか、出演者も大変な熱演ぶりで観客をわかせた。しかし、その勢いか計算されたものかは分からないが、團十郎の右京が愛人の花子のもとから帰って来る花道の出から、ほろ酔い加減がいつもより酔っ払い度が高かったように思うが、いかがであろうか?
左團次の奥方玉の井も、ますます怖さ全開(?)の恐妻ぶりであるが、一種の可愛らしさも出ていた。染五郎の太郎冠者も、この二人にはさまれても軽妙さで負けていない。
観劇前には、大変失礼ながら少し驚いた配役であった家橘と右之助の千枝と小枝であるが、これが最近老け役をもこなす役者とはとても思えない瑞々しい侍女であった。筋書の過去の上演記録を見ると、二人とも過去に数え切れないほど演じていたのだから、なるほどと納得。歌舞伎役者の底力をあらためて実感した。
『二條城の清正』
この演目がもっとも初日に比べて、段取りも流れもよくなり、全体として引き締まった。とりわけ二條城大広間の秀頼と家康の対面の場面が、緊張感が出ており、城替えなど家康側からの手を替え品を替えて何とか秀頼を自らの支配のもとに置こうとする策略に対して、清正が身を賭して必死に守り抜く駆け引きは、「還御」と大喝してクライマックスに達する。
御座船は、秀頼と清正主従の心の触れ合いが見所であり、清正が秀頼を思う気持はただ亡き太閤秀吉への恩返しのみならず、我が子同然に思うという述懐と、それに対して秀頼もいつまでも長生きして欲しいと泣く場面は、なかなか感動的であった。
吉右衛門の清正は、傾きかけている豊臣家を病をおしてでも必死に守り抜こうとする老武将の姿そのものであり、初代の遺産を立派に継承していることは讃えなければいけないだろう。だが、この千穐日を観ても、吉田弦二郎の台本は、例えば御座船の場が少々くどく感じられるように、現代ではやや古めかしさを感じる。次に再演する機会があった時は手直しを望みたい。