徒然なる日々の条々を、六条亭が日記風に綴ります。本屋「六条亭雑記」もよろしく。
 
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【2018. 08. 18 (土)】 author : スポンサードリンク
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年末のご挨拶と御礼
本年も本日の大晦日で残り後僅かとなりました。本年も多くの方々に拙ブログをご訪問いただき、まことにありがとうございました。昨年7月に設置しましたアクセス・カウンターが昨年末に早くも5万台に到達したことには大変驚いたのですが、今年はさらにご訪問者の方々が増加するばかりで、あれよあれよという間にこの末で18万台をはるかに越える見込みです。

今年は玉三郎さんの舞台も多かったことから、検索エンジンからのご訪問者数も逓増傾向であり、とりわけ「第34回俳優祭」の『白雪姫』は残念ながらチケットを入手できなかった方々が、拙ブログ記事をご覧いただいたようです。

ブログ記事をまとめる立場としては、多くの方々に読んでいただく事は嬉しい反面、なかなか従来のように気安く書き難くなっていることも事実ですが、新しい年もマイ・ペースで歌舞伎の記事を中心にして、書き続けて行きたいと思います。来年もどうぞよろしくお願いいたしますm(__)m。それではよいお歳をお迎え下さい。

JUGEMテーマ:日記・一般
【2007. 12. 31 (月)】 author : 六条亭
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『堀部彌兵衛』『清水一角』『松浦の太鼓』−「それぞれの忠臣蔵」の感想
17日に観劇した「それぞれの忠臣蔵」の感想。これを書かないと忘れものをしたようなので、この年の瀬になって、慌てて簡単にまとめる。

今回の国立劇場の十二月歌舞伎公演は、忠臣蔵外伝というべき赤穂浪士の吉良邸討ち入りをめぐる人々を描いた三本の狂言を並べたもので、企画としては面白い。ただ、それに見合うコクと内容のある狂言かというと、とてもそうは感じなかった。いかにも軽いのである。秀山十種の一つである『松浦の太鼓』自体、他愛も無い話で主役の松浦候に愛嬌がなかったら、すぐにでもすきま風が吹いてきそうなものである。しかも、その他の二つは珍しい狂言であるものの、いかにも蔵から出してきた骨董品の趣きがあって、最近は上演されないのはなるほどそれだけの理由があるものだと思った。

『堀部彌兵衛』

堀部彌兵衛が高田馬場の仇討ちで中山安兵衛に惚れ込み、養子に迎えることを必死で口説き落とし、その時はまだ乳飲み子だった娘さちを十五年後の吉良邸討ち入りの当日に祝言をあげさせて、二人で勇躍討ち入りに向うという話である。

吉右衛門の彌兵衛が、吉之丞の妻たねとの年齢的バランスもあったであろうが、最初は随分年寄り臭いのはいささか疑問に思ったが、十五年後の姿はいかにも年齢相応で、自分の思いを達して討ち入りできる満足と安堵感も伝わって来る老熟ぶりであった。吉之丞は、つつましいなかにも夫を思い遣る気持に溢れた名演で、この人にはもっと多くこのような舞台に出て欲しいと思った。歌昇の安兵衛は爽やかで、これなら彌兵衛が惚れ込むのも当然だと思わせた。隼人のさちが、初々しい。拾い物と言っては申訳ないが、由次郎の住持丈念が、すぐに眠り込んでしまう坊さんで、ユーモアたっぷりであった。この人はこういう役の方が向いているのではないか?

『清水一角』

酒乱の清水一角が、夜討ちの太鼓を聞くと、がばっとはね起きて、肌着を着けて、主君吉良上野介のもとへ駆けつけるというものであるが、河竹黙阿弥の作とは思えないような面白みのない作品である。唯一歌六の丈左衛門との立ち回りが、肌着などの衣裳をつけながらという点に目新しさがあった程度であった。

『松浦の太鼓』

宝井其角がみすぼらしい姿の大高源吾に読みかけた「年の瀬や水の流れと人の身は」に対する付句「明日待たるるその宝船」が、大きな意味を持ついかにも年末に相応しい狂言である。松浦鎮信は、赤穂浪士たちがいつまで経っても討ち入りしないので、不機嫌になって、源吾の妹に暇をやろうとする駄々っ子のような我がままな殿様である。だから、この役は吉右衛門のような大ぶりの愛嬌がないと舞台が引き立たない。その点今回もはじけたような我がままぶりと無邪気さは、当り役に名に恥じない。歌六の其角が軽みと剛直さをあわせもっていて、素晴らしい。芝雀のお縫は目立たぬようでいて、たしかな存在感を持っていた。染五郎の大高源吾は、煤竹売りの姿でも武士の気品を見せていたのは立派であるが、討ち入りしてからの語りでは、またもや口跡が苦しそうな部分があったのは残念である。

【2007. 12. 30 (日)】 author : 六条亭
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「杉村歌舞伎と玉三郎歌舞伎」−上村以和於の観劇偶談(111)
演劇評論家の上村以和於氏がそのオフィシャルサイトで「杉村歌舞伎と玉三郎歌舞伎」と題して、十二月大歌舞伎で好評だった『ふるあめりかに袖はぬらさじ』についてなかなか興味深い内容をアップしている。

12月26日付け 「杉村歌舞伎と玉三郎歌舞伎」−上村以和於の観劇偶談(111)

玉三郎が今回演じた『ふるあめりかに袖はぬらさじ』は、杉村春子が演じた藝を例えば三代目の菊五郎の型を引き合いに出して歌舞伎の型になぞらえ、「杉村屋の型」を玉三郎が継承したというのである。私は杉村春子の舞台を観ていないので、この説の当否については判断できる立場にないが、少なくともその面影を髣髴とさせることは間違いないし、また玉三郎がそれを受け継いで、歌舞伎としても違和感なく造形し、女形が主役でかつ一人での幕切れとなる狂言を歌舞伎座で歌舞伎狂言として出したことを考え合わせれば、上村氏が「玉三郎歌舞伎」と評するのはあながちおかしいことではない。また、『ふるあめりかに袖はぬらさじ』の唐人口などが登場する場面を『助六』の股潜りなどに比し、歌舞伎の華とも言っているのは卓見であろう。

しかし、それを承知であえて異論を唱えれば、「玉三郎歌舞伎」という表現にはどこか古典歌舞伎とは異なっていて、歌舞伎狂言としてまだ認知してないような印象を受ける。たしかに、亀遊の死が瓦版をきっかけに攘夷女郎として事実からはるかに異なった虚像に仕立て上げたのは玉三郎演じる芸者お園の語りの藝であり、それは玉三郎が永年にわたって上演を重ねることによって築き上げた藝の蓄積の賜物であろう。また、今この役を演じることが出来る女形は玉三郎以外にはいないであろう。だが、今までの歌舞伎にない女形が主役の『ふるあめりかに袖はぬらさじ』、きっといずれ次世代の女形が「玉三郎歌舞伎」を一つの型として受け継いで行くことは論を俟たない。その時はもう「玉三郎歌舞伎」という言葉はなくなっているに違いない。



【2007. 12. 29 (土)】 author : 六条亭
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玉三郎さんの『牡丹亭』続報ー「紅娘の観劇記」さまの記事から
いつもお世話になっている紅娘さまの「紅娘の観劇記」の記事から、この3月の南座で上演される『牡丹亭』の続報が判明したので、下記にリンクをはって紹介させていただく。

玉三郎さんの『牡丹亭』続報

それによれば、次の通りとのこと。(29日補記)なお、カッコ内は紅娘さまのコメンントです。
・玉三郎さんはもうすぐ蘇州に来て、非公開のリハーサルを行う。

・来年3月京都で行われる公演のチケットの売り上げは非常に良い。

・来年5月に北京で、オリンピック振興特別公演として公演がある。
(来年2008年には北京でオリンピックを歓迎する意味で、京劇など伝統劇の公演が予定されています)

・来年11月に、二度目の日本公演。(東京かな?)

・2009年にはイタリアで招聘に応じて公演。(玉三郎さんもイタリアに行かれるのかな?)

肝心の東京公演はもしかして11月に行われる可能性が出てきたことは、3月の南座に遠征できない身にとって大変ありがたい情報である。

【2007. 12. 28 (金)】 author : 六条亭
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『寺子屋』『粟餅』−十二月大歌舞伎夜の部の簡単な感想(その二)
『寺子屋』と『粟餅』の感想は結局千穐楽の観劇まで書けなかったので、今さらながらであるが、簡単な感想。

『寺子屋』

勘三郎の松王丸は、歌舞伎座でははじめて演じたとは意外だったが、十分研究尽くしている跡がうかがえる手堅い出来である。病を装って我が子小太郎を菅秀才の身替りにする苦悩は前半の首実検でも十分見て取れたが、源蔵に真実を語った後、小太郎が潔く首打たれたと聞いて、桜丸のことも思い合わせて、男泣きするところは胸うたれた。ただ、この役が勘三郎のニンかどうかは、私には正直よく分からない。松王丸の恰幅の大きさという点については、藝の力で補っているけれども、やや不足する。さらに一回りの大きさを求めたい。福助の千代は松王丸をたてて神妙な出来であるが、逆に我が子を失った悲しみを抑制しすぎているきらいもある。

海老蔵の武部源蔵は、この人の欠点としてあげられる高音部の口跡の不安定さと時々素になる癖を除けば、しっかりと演じていて、好感を持てた。勘太郎の戸浪が、初々しくもまた時代物の作法を弁えた女房振りで、好一対の忠義の若夫婦であった。

『粟餅』

常磐津の舞踊狂言。往来での粟餅の曲搗きや曲投げの風俗が巧みに描かれている。三津五郎の踊りのなかに六歌仙の部分があり、小野小町から大伴黒主まで短い踊りで素早く踊り分けているのは、さすがとうなるような見事さである。橋之助ともども観ていて気持ちよくなるような闊達な踊りだった。

【2007. 12. 27 (木)】 author : 六条亭
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千穐楽の『ふるあめりかに…』は
千穐楽とあってリピーターの観客の方が多かったようで、玉三郎さんの台詞が大いに受けていました。海老蔵さんからもらった心付けを勘三郎さんが、その前の亀遊の作り話がよく出来た、と玉三郎さんに渡していました。

万雷の拍手に一回カーテンコールがあり、玉三郎さん一人が舞台の真ん中で観客に拍手に応えて深々と御礼をして、今年の歌舞伎座十二月興行も賑やかに幕となりました。
【2007. 12. 26 (水)】 author : 六条亭
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十二月大歌舞伎千穐楽通し観劇
200712261048000.jpg
これから千穐楽の昼の部か開演します。
【2007. 12. 26 (水)】 author : 六条亭
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戸板康二『松風の記憶   中村雅楽探偵全集5』を読む
評価:
戸板 康二
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(2007-11)
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中村雅楽探偵全集の最終巻をようやく読み終えた。既刊の四巻がすべて短編で構成されているのに対して、本巻は『松風の記憶』と『第三の演出者』の長編が二編収録されている。執筆された時期が1959年から61年にかけてと作者が推理小説を書き始めた初期の頃に属すること、また戸板氏は本質的に短編小説作家であったことから、この二長編は構成から言っても必ずしもうまい推理小説とは思えない。しかも、『第三の演出者』はお馴染みの歌舞伎の世界ではなく、新劇の世界を題材にしている。

にもかかわらず、どちらの作品もいつもながら中村雅楽の謎解きが鮮やかで説得性があり、そして事件解決後の後始末に見せる雅楽の優しさが、たとえ殺人事件を扱っていても読後感が爽やかである。『松風の記憶』は、巡業先で歌舞伎の老優が変死したことに端を発する長編で、老優の息子の歌舞伎俳優と日本舞踊の師匠、そして以上の三人に因縁のある若き劇団の研究生の女性の一種の三角関係を軸に物語が展開する。そのなかで女の妄執をモチーフにした舞踊『鷺娘』が重要な役割を与えられているのは、主題に相応しい選択である。しかし、この作品の中でもっとも印象的なのは、老優の死の舞台になった架空の古刹とその死の真相であり、ネタバレになるので詳しくは書けないが、ある歌舞伎の有名な場面が巧みに使われている。また、謎解きと犯人への雅楽のメッセージの場を句会に設定したのも大変自然である。

『第三の演出者』は、新劇の劇団指導者の病死後におきた事件をめぐり、竹野記者と事件関係者の手記が綴られ、それを読んだ雅楽が事件の真相を謎解きするという完全な安楽椅子探偵であるが、その入り組んだ人間関係を洞察する雅楽の目はやはり鋭い。劇団指導者がやや陰湿な性格に描かれているので、いささか暗い色彩が強いけれども、殺人トリックは上々のものであろう。

本巻は、中村雅楽探偵全集全5巻の掉尾を飾るに相応しい読みでのあるものであった。

JUGEMテーマ:読書
【2007. 12. 25 (火)】 author : 六条亭
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『ふるあめりかに袖はぬらさじ』−十二月大歌舞伎夜の部の簡単な感想(その一)
二日の初日と二十日に二回観劇した十二月大歌舞伎夜の部の感想。本来であれば、それぞれ別に書かなければならいけないであろうが、大分時間が経ってしまったので、千穐楽観劇の前にとりあえず、『ふるあめりかに袖はぬらさじ』の感想のみ簡単に。

有吉佐和子が杉村春子にあてて書いたこの戯曲を玉三郎は過去に何度もこの演じてきたが、今回はじめて歌舞伎座で、つまりすべて歌舞伎俳優で演じたまさに歌舞伎ヴァージョンである。と言っても、戌井市郎演出をそのまま持って来ているから、とくに目だって変わったことをしている訳ではないようだが、端役の隅々まで歌舞伎役者で、しかも今月出演の主だった役者が総出演で脇を固めたことにより、この傑作戯曲がより生き生きとして精彩を帯びた。

尊王攘夷の物情騒然たる幕末の横浜の遊郭岩亀楼を舞台に、遊女亀遊が唐人口と呼ばれる外国人相手の遊女ではないのに、その美しさからイルウスに身請けされそうになった。亀遊は恋人の通詞藤吉にその姿を見られたことを恥じて自害したが、外国人に身を売ることを嫌って「露をだにいとう倭の女郎花 ふるあめりかに袖はぬらさじ」との辞世を呼んだと瓦版に攘夷女郎として書かれたことから、亀遊を妹のように思って面倒を見ていた芸者お園は、実像とは異なった烈女亀遊を作り上げるのに一役を買ってしまい、次第にその語り部のようになり、何が真実か分からなくなる。喜劇であるが、流言蜚語のたぐいが、増殖するという現代の世相に通じる話である。

主役のお園は、気風がよく面倒見の良い芸者だが、おしゃべりで酒好きなのが玉に瑕。この玉三郎のお園は、饒舌なしゃべりを完全に自家薬籠中のものにして、一つの藝にまで高めている。亀遊に対する優しさ、藤吉との恋を微笑ましく見つめる目、芸者としての座持ちのうまさ、そして亀遊の自害を心ならずも攘夷女郎に仕立て上げる役を演じるようになるさまは、岩亀楼主人の命じるままにせよまるで講談師のようになるなど、お園は複雑な性格でもあるが、玉三郎は三味線も含めてまさに口八丁手八丁、大変見事に演じている。ぶつぶつとつぶやくような台詞が、十月の『怪談牡丹燈籠』と同様印象的である。

七之助の亀遊は、薄幸の遊女の儚げな部分がよく出ていて、『磯異人館』の琉璃と『怪談牡丹燈籠』のお露に続く好演である。獅童の通詞藤吉は、古典では気になる粗さが表面に出ず、一途な好青年振り。勘三郎の岩亀楼主人は、こういう役は達者なもので安心して観ていられる。勘三郎の存在が、この戯曲を世話物風に見せるのに大いに貢献したと思う。

彌十郎のイルウスは、歌舞伎座の舞台で殆んど英語をしゃべる外国人という難役であるが、その上背もあり、堂々たるもの。勘三郎との片言交じりの会話が面白い。海老蔵が浪人役でほんの少し出てきても存在感があるはさすがである。三津五郎、橋之助、勘太郎など思誠塾の攘夷志士の面々も、いささか固くなりがちな最後の幕を引き締めている。唐人口の六人の遊女たちは、お遊び一杯の衣裳と化粧で大いに笑わせる。幕開きの真っ暗な行灯部屋にさす光りも含め、横浜の港近くを思わせる舞台装置も秀逸であった。

【2007. 12. 24 (月)】 author : 六条亭
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『小町村芝居正月』の成功祈願(国立劇場トピックス)
国立劇場初春歌舞伎公演の復活狂言『小町村芝居正月』は楽しみな初芝居であるが、18日付更新の国立劇場のHPに、主演の菊五郎、時蔵、松緑、菊之助の四人がゆかりの地である京都の神泉苑で成功祈願を行ったというトピックスが、アップされていた。

京都神泉苑で初芝居『小町村芝居正月』の成功祈願

このなかのそれぞれの談話を読むと、時蔵の小町姫は「阿古屋の琴責め」のように劇中琴を弾くところがあり、また菊之助の小女郎狐は狐の所作での激しい立回りがあるようである。歌舞伎のいろいろな趣向をふんだんに取り入れて楽しめる毎年恒例の復活狂言、さて来年は加えてどのような趣向がこらされているのだろうか?



【2007. 12. 21 (金)】 author : 六条亭
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