二日の初日と二十日に二回観劇した十二月大歌舞伎夜の部の感想。本来であれば、それぞれ別に書かなければならいけないであろうが、大分時間が経ってしまったので、千穐楽観劇の前にとりあえず、『ふるあめりかに袖はぬらさじ』の感想のみ簡単に。
有吉佐和子が杉村春子にあてて書いたこの戯曲を玉三郎は過去に何度もこの演じてきたが、今回はじめて歌舞伎座で、つまりすべて歌舞伎俳優で演じたまさに歌舞伎ヴァージョンである。と言っても、戌井市郎演出をそのまま持って来ているから、とくに目だって変わったことをしている訳ではないようだが、端役の隅々まで歌舞伎役者で、しかも今月出演の主だった役者が総出演で脇を固めたことにより、この傑作戯曲がより生き生きとして精彩を帯びた。
尊王攘夷の物情騒然たる幕末の横浜の遊郭岩亀楼を舞台に、遊女亀遊が唐人口と呼ばれる外国人相手の遊女ではないのに、その美しさからイルウスに身請けされそうになった。亀遊は恋人の通詞藤吉にその姿を見られたことを恥じて自害したが、外国人に身を売ることを嫌って「露をだにいとう倭の女郎花 ふるあめりかに袖はぬらさじ」との辞世を呼んだと瓦版に攘夷女郎として書かれたことから、亀遊を妹のように思って面倒を見ていた芸者お園は、実像とは異なった烈女亀遊を作り上げるのに一役を買ってしまい、次第にその語り部のようになり、何が真実か分からなくなる。喜劇であるが、流言蜚語のたぐいが、増殖するという現代の世相に通じる話である。
主役のお園は、気風がよく面倒見の良い芸者だが、おしゃべりで酒好きなのが玉に瑕。この玉三郎のお園は、饒舌なしゃべりを完全に自家薬籠中のものにして、一つの藝にまで高めている。亀遊に対する優しさ、藤吉との恋を微笑ましく見つめる目、芸者としての座持ちのうまさ、そして亀遊の自害を心ならずも攘夷女郎に仕立て上げる役を演じるようになるさまは、岩亀楼主人の命じるままにせよまるで講談師のようになるなど、お園は複雑な性格でもあるが、玉三郎は三味線も含めてまさに口八丁手八丁、大変見事に演じている。ぶつぶつとつぶやくような台詞が、十月の『怪談牡丹燈籠』と同様印象的である。
七之助の亀遊は、薄幸の遊女の儚げな部分がよく出ていて、『磯異人館』の琉璃と『怪談牡丹燈籠』のお露に続く好演である。獅童の通詞藤吉は、古典では気になる粗さが表面に出ず、一途な好青年振り。勘三郎の岩亀楼主人は、こういう役は達者なもので安心して観ていられる。勘三郎の存在が、この戯曲を世話物風に見せるのに大いに貢献したと思う。
彌十郎のイルウスは、歌舞伎座の舞台で殆んど英語をしゃべる外国人という難役であるが、その上背もあり、堂々たるもの。勘三郎との片言交じりの会話が面白い。海老蔵が浪人役でほんの少し出てきても存在感があるはさすがである。三津五郎、橋之助、勘太郎など思誠塾の攘夷志士の面々も、いささか固くなりがちな最後の幕を引き締めている。唐人口の六人の遊女たちは、お遊び一杯の衣裳と化粧で大いに笑わせる。幕開きの真っ暗な行灯部屋にさす光りも含め、横浜の港近くを思わせる舞台装置も秀逸であった。