昨日観劇した夜の部の感想から。
『口上』
初代松本白鸚と言っても、幸四郎の名前を息子の当時染五郎に譲って襲名してからまもなく亡くなったから、私の記憶の中ではどうしても幸四郎(八代目)という名前が強く刻み付けられている。今回の追善興行が二十七回忌と聞いても、そのような長い年月が経過したとはにわかには信じられなかった。比類ない時代物の役者であって、戦後歌舞伎を、兄十一代目團十郎、弟二代目松緑の三兄弟で支えてきたことは、間違いない。
その意味でこの追善興行の意味は評価できるし、口上が最近のように大人数居並ぶというものでなはく、親族のみ(雀右衛門、吉右衛門、松緑、染五郎、幸四郎)五人であったのも、白鸚好みと幸四郎が言っていたように、追善の口上に相応しく温かく、大変いいものだった。ただ、唯一團十郎がこの場にいてくれたらなおさらよかったと思うが。しかも、舞台の襖絵は、絵を得意とした白鸚の「松の寿」を大道具さんが書いたものというのも追善に花を添えていた。
幸四郎は、白鸚を大変やさしい人だったこと(夫人がヴァレンタイン・チョコを送った巡業先を「松江」と覚えていて、夫人が大喜びだったという晩年のエピソードが披露されていた)、そしてまた大変ガマン強い人だったことも手術のエピソードを交えて話していたが、まさに私の記憶のなかにある幸四郎のイメージそのままであったことが懐かしい。
私は中学から大学時代に、『勧進帳』の弁慶、『仮名手本忠臣蔵』の由良之助や『菅原伝授手習鑑』の松王丸などを観たはずである。しかし、ちょうど一門の東宝専属事件もあり、そう多くの舞台を観たとは思えないが、とにかく存在感のある重量級の役者であった。一番記憶が鮮明なのは吉右衛門が口上で話したように、今月昼の部に出ている『積恋雪関扉』を、当の吉右衛門の二代目襲名披露として帝国劇場の新装開場(昭和41年10月)で踊った時である。歌右衛門が付き合って出演し、大伴黒主を幸四郎、歌右衛門が小町姫、墨染の二役、宗貞を吉右衛門が演じた。古径で、かつ大変こってりとして濃厚な関の扉であって、以降この舞踊を観るたびに思い出すほどである。
また白鸚は、今は吉右衛門が引き継いだ『鬼平犯科帳』の初代長谷川平蔵であり、このテレビドラマでも、原作をよく生かして、お茶の間のファンを惹き付けたと思う。
さて、口上では幸四郎が今回の追善の演目は、白鸚が得意にした演目を並べたと言っていたが、時代物に偏りすぎで、かつ昼夜の演目のバランスが悪く、決してよい選択だったとは思えない。とくに『熊谷陣屋』は、主な配役が
平成十八年十月と同じだったのは、いかがなものかと思う(相模は、芝翫休演のため、福助が代役。しかし、これとても昨年の秀山祭で福助の相模を観ているから、変わり映えしない)。
ただ、夜の部にただ一つ、染五郎の『春興鏡獅子』を入れてあったのは、よかったと思う。これは白鸚没後であるが、染五郎が子供歌舞伎で一度だけ鏡獅子を踊った時に、二代目松緑が観て「高麗屋にも弥生を踊れる役者が出たな」と、感慨深げだったことによるとの幸四郎の口上であった。
『春興鏡獅子』
染五郎は少年期は女形を演じることが多かったから、最近こそ立役が中心だが、この舞踊の大曲も危なげなく丁寧に踊る。御小姓弥生の清潔な色気が出ているのがいい。川崎音頭の部分はもう少し柔らか味があってもいいが、全体としては舞台映えする美しさも含めて、大変結構なものだった。
後半の獅子の精は、先月の『連獅子』から二ヶ月連続の毛振りとなるが、豪快に見せた。打ち出しはやはりこのように華やかな舞踊が、気持ちよく終わっていいものである。
富十郎が中心の『寿曽我対面』は、どうしたことか緊迫感がなくややすきま風吹いていた感じである。橋之助の十郎と三津五郎の五郎がアンバランスだったことにもよるかもしれない。橋之助がニンではなかったことから来ていると思う。『熊谷陣屋』は、上記の通り繰り返し観ていて目新しさもないので、今回の感想は略す。