大変遅くなってしまったので、十四日に観劇した夜の部の感想は簡単にまとめる。重厚な昼の部に比べると夜の部は四つの演目の並べ方が散漫で、全体として印象が薄い。
『すし屋』
吉右衛門の権太は二回目とか。このすし屋は六代目菊五郎が得意にしたように音羽屋の型が現在主流であるが、最近では仁左衛門の上方流の権太が印象に残る。叔父松緑に習ったという吉右衛門も時代物ほどあっている役とは見えなかったが、しかしそこは台詞のうまさでは抜群の吉右衛門、前半も江戸前の粋で、憎めないの小悪党ぶりで、母親の騙す涙の部分も笑わせる。
またすし桶を抱えての花道の引っ込みはさすがに颯爽としていて、かっこいい。自分の妻と息子を若葉の内待と子の六代と偽って、梶原方に渡す時の腹も十分である。父に刺された後のもどりで、その本心を明かすところは吉右衛門ならではの見せ場だった。
芝雀のお里が、田舎娘が維盛に迫る色模様もくどくならず、清潔な色気に溢れている。今月の芝雀は昼夜とも大当たり。染五郎は、弥助実は平維盛のやつしをまずは無難に見せている。歌六の弥左衛門が最近この人が多く演じている老け役のなかでも出色のものだろう。忠義と親子の間で揺れ動く心情を巧みに見せている。吉之丞のおくらは、毎度のことながら座っているのみでその存在感が光っている。段四郎の梶原景時が大きい。
『身替座禅』
新橋演舞場と掛け持ちの仁左衛門の右京が最大の見もの。奥方玉の井(段四郎)の目を盗んで愛人の花子のもとへ会いに行った右京を仁左衛門持ち前の愛嬌を十二分の振りまきながら、巧みに演じ踊っている。ほろ酔い気分のでの花子との逢瀬を演じ分けるところがとりわけすぐれていた。対する段四郎はこのような役をはじめて観たが、巧まずしてこの役の怖さと可愛さの両方を見せていたのは素晴らしい(
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錦之助の太郎冠者も、仁左衛門とバランスがよい美男であるから、全体として舞台が明るくなった。巳之助と隼人の千枝、小枝は、御曹司の勉強の域に止まらず、愛らしい踊りを披露してくれた。隼人は声変わりで、台詞はまだきつそうであるが。
『生きている小平次』
狂言名のみしか聞いたことがなかった新歌舞伎の怪談もの。一人の女をめぐる二人の男たちの争いから殺されたはずの小平次が生きているのでは?という設定がうまく生かされた戯曲だと思ったが、幸四郎、染五郎、福助が演じる三人の主役のうち、肝心の福助の演技が女としての生き方の方向軸が定まっていない。だから、過剰なばかりの演技のみが目立ってしまい、怪談なのかコメディなのか分からなくなるのは困る。九代琴松の名で演出した幸四郎はこの点をどう解釈したのだろうか?疑問が残る。染五郎の小平次が、なかなか凄愴な演技を見せていたから、なおさら消化不良で終わってしまった。
『三人形』
花の吉原仲之町を舞台に、芝雀の傾城、錦之助の若衆、歌昇の奴による廓噺の常磐津舞踊。奴の踊りは「伴奴」が多く使われてたようである。前の演目の暗さから一転して、華やかな踊りで締まった。夜の部は常磐津の一巴太夫の名調子を『身替座禅』とあわせて二回も聴くことができたのは得をした気分であった。