納涼歌舞伎千穐楽の感想はまず第三部から。
全体としては残念ながら初日の感想を大きく変えるようなものではなかったことをお断りしたい。なお、『野田版 愛陀姫』はヴェルディの歌劇『アイーダ』を少なからず観て、聴いており、愛好する立場の人間としてこの作品に対するまとめを書いたものであることも書き添えておきたい。
『紅葉狩』
勘太郎の更科姫は当初こちらの期待が大きすぎたのかもしれない(彼はその期待に十分応えることができる実力ある若手役者であると思うことには変わりはない)が、どうも体の線に硬さが抜けず、踊りにもどこか潤いに欠ける。彼の踊りは若手の中でも抜群のうまさを今まで感じていたから、こんなはずではないのだが、と思っているうちに鬼女に変わってしまった。扇の扱いもこの日もひやりとさせる場面があった。再演する時までさらに精進して欲しいものである。
巳之助の山神は踊りそのものにだいぶ切れが出てきていたが、台詞の高音部に難があるのは何とか改善してもらいたいものである。橋之助の平維茂は、まずは安定した手堅い出来に仕上がっていたから、幕切れの鬼女と維茂の二人は見所十分の絵になっていたと思う。
『野田版 愛陀姫』
さて問題の『野田版 愛陀姫』、オペラの『アイーダ』をご覧になっていない方がどのような感想を持たれたのかが関心のあるところであるが、私としては次のいくつかの点でこの作品を歌舞伎の新作としては評価することは出来ない点には変わりがない(初日の感想は、
こちら)。ただ、これはあくまで野田秀樹の才能をもっといい方向で発揮してもらいたいがゆえの苦言であるから、勘三郎と組んでの次回の新作の時は是非再考して欲しいものである。
(1)まず明らかにヴェルディの歌劇『アイーダ』に題材を取っているにもかかわらず、作曲者ヴェルディとイタリア語台本を書いたギスランツォーニの『アイーダ』よりという断りが書いてなく、あたかも野田秀樹作という表示は理解しがたい。台詞の多くの部分を直訳体に近い言葉で原作をそのまま使っているのだから、これはおかしなことである。いくら昔の歌舞伎が多くの先行作品からの書き替えであったにしても、これはイタリアの、そしてオペラの代表的作曲家の代表作の一つである。マナー違反と言われても言い過ぎではないであろう。現に蜷川幸雄がシェークスピアの『十二夜』を『NINAGAWA 十二夜』として歌舞伎の演出をした時は、原作者と訳者小田島雄志の名前がしっかりと謳ってあった。また自身『野田版 研辰の討たれ』を書いたときに、木村錦花作、平田兼三郎脚色としてあったのを忘れてしまったのだろうか?(
平成十七年五月のチラシ)
(2)上記に関係するが、原作のオペラの台詞はそんなに多くはないのだが、そのアリアも含めて原作の台詞をどうしてあのように早口の説明調で、絶叫させるのか?もともと歌舞伎の台詞も同じく多くはないが、役者の腹芸で膨らませているから、溜めができ、舞台が大きくなる。この演出では濃姫、愛陀姫、木村駄目助左衛門ともに役としての造形が浅い感を免れない。もっとじっくりとした台詞のやりとりをさせるべきではないか。脇台詞も効果的ではなく、逆に落ち着いて台詞を味わうことを阻害している。このあたりはオペラと歌舞伎の演劇構造上の違いであり、脇台詞は歌舞伎には似合わない。
(3)偽祈祷師の二人の部分は、彼らがインチキだったものが次第次第に人間たちの表情を読み取ることによりその望むような託宣をできるようになるという点は、人間の怖さ、弱さを抉り出していて野田秀樹の創作としては面白い。しかし、この偽祈祷師の部分が、そもそも美濃の斉藤家と尾張の織田家の争いとその渦中にある若者たちの愛の悲劇とどう関連するのか理解できない。悲劇と喜劇が隣り合わせであることは間違いないが、とくに前半の偽祈祷師の部分は喜劇的要素が強過ぎて、違和感がある。つまりこの偽祈祷師の部分は、『野田版 愛陀姫』の主題を曖昧にしてしまっていると考える。ましてやこれが濃姫が織田家に嫁ぐからとつじつまあわせをしていても、歴史劇になっているとは到底思えない。なお、蛇足ながら「ラダメス」の名前を入れようとしたにしても木村駄目助左衛門とう名前はありえない名前であり、お遊びが過ぎ、これまた作品を軽いものにしてしまっている。
(4)音楽の部分にも統一感と歌舞伎らしさが感じられなかった。邦楽器で『アイーダ』を音楽を演奏するのみでは限界があり、ヴァイオリンやトランペットまで動員したのはやむを得ないとしても、すべてテープというのは歌舞伎座での歌舞伎上演としてはいかがなものか。また、すでに書いたことと繰り返しになるが、多くの部分にヴェルディの原曲をアレンジしたものを使いながら、幕切れの音楽がいきなりマーラーの交響曲第5番第4楽章「アダージェット」になるのは統一感がないと感じられた。推量するに濃姫が木村駄目助左衛門への慕情を持ちながらも尾張の信長に嫁ぐ心情を表すためだだろうと思うが、ここは原曲に哀愁を帯びた「さらば大地よ」という素晴らしい音楽があるのだから、それを使って欲しかった。
(5)装置、衣裳なども『アイーダ』を意識するあまり、金ぴかの趣味の悪さと統一感のなさは私としてはまったく趣味に合わなった。野田版と言うなら、かえって原作を離れた装置を工夫すべきだったと思う。幕切れの上部の濃姫と死に行く石牢の二人という二層構造の装置はオペラではあまりにも使われ過ぎていて、陳腐といっていいほどのものである。
(6)その他歌舞伎として観た場合、つけ打ちがほとんど使われず、使われた場面も必ずしもつけ打ち本来の効果は出ていなかった。また花道がまったくといいほど使われていなかったのは演出として疑問がある。さらに凱旋行進曲の場面の原作のバレエの部分にあたるところが民衆の盆踊り程度でしかなく、見せ場にもなっていなかったのはもう少し何とかならなかったのだろうかと思う。
最後に役者たちの演技に触れておかなくては感想として片手落ちであろう。勘三郎の濃姫は、愛と嫉妬に苦しむ姫という設定のこの役を、初日に比べれば歌舞伎の女形としての役にかなり近づけた点は評価できる。しかし、台詞の多さにはさすがに勘三郎も難渋している部分も散見され、聞かせどころは幕切れの尾張に嫁ぐ場面のみであった。
題名役(タイトルロール)の七之助の愛陀姫は、苦労しているものの初日に比べると一番台詞が自分の役としての言葉となっていたから、悲劇のヒロインに相応しい。対する橋之助は前半は上記のように名前で損をしており、若き武将の雄々しさに不足する。しかし、後半の愛陀姫と父信秀を助けて罪に服するあたりは潔く恋に殉ずる一途さがよく出ていた。彌十郎の斉藤道三は偽祈祷師の託宣にすべてをまかす暗愚な領主でしかなく、少々気の毒な役。三津五郎の織田信秀は今回も一人卓抜な台詞術で謀将としての鋭さも見せ、原作のアモナズロを髣髴とさせる素晴らしさだった。
偽祈祷師の福助、扇雀は演出の意図にはそっているのだろうが、やり過ぎの部分も感じられ、少々くどい気がした。また二人とも声が荒れていたのはこの役で普段使わないような声の出し方をしていたためだろうか?