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評価:
横山 泰子
講談社
¥ 1,575
(2008-09-11)
Amazonランキング:
23947位
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先日
是非読みたいと書いた本が早速手に入ったので、一気に読了した。著者は歌舞伎を中心とする江戸文化を専門とする学者であるが、本書はタイトル通り江戸歌舞伎を怪談と化け物を切り口にして考察したものである。と言っても豊富な図版と多方面にわたる文献を渉猟して、分かりやすく、また示唆に富む。まえがきにあるように坪内逍遥が歌舞伎を「カミーラ」、キマイラという獅子と山羊と龍をあわせたようなギリシャの怪獣に譬えたのは有名である。つまりそれだけ歌舞伎は多面的な芸術であるということである。以下、簡単に各章の概要を書きながら感想を付け加えたいが、タイトルもご覧のようになかなか洒落たものである。
第一章「夏は水中早替り」では、怪談は歌舞伎の夏狂言、そして怪談物なるジャンルを作り出し、定着させた初代尾上松助の活躍ぶりを水中早替りという芸に焦点をあわせて書いている。その際、「本水」「早替り」「役者」の三要素をもとに世界の演劇と比較することにより、この「水中早替り」は日本独自の芸であると説いている。私も例として挙げられている『怪談乳房榎』を当時の勘九郎で観たことがある。観ている方はこれほど涼味一杯で楽しいものもないが、演じる役者としては大変な体力が必要だろう。
第二章「玉藻前は人気者」は、文化文政期に人気のあった玉藻前を主人公にした物語が主題である。要は金毛九尾の妖狐譚なのであるが、当初はその前世は殷の妲妃、そして天竺の華陽夫人だったという壮大な物語であったようだ。しかし、鎖国日本では他国への関心が薄れ、妖婦玉藻前のみが男にとって魅力的になったという。しかし、ここで注目すべきは当時の人が狐を不思議な動物と考えていたことであろう。狐つきを例に出すまでもなく、稲荷として信仰もしていた。『義経千本桜』の狐忠信が抵抗なく受け入れれるのも至極当然であろう。
第三章「バケネコ・ミステリー・ツアー」は、玉藻前のライバルとして登場した三代目菊五郎が得意にした化け猫である。これを『独道中五十三駅』をもとに例証している。尾上家の家の芸となった化け猫は、昨年一月の国立劇場公演『梅はる五十三驛』で観ることが出来たのも記憶に新しい。この化け猫ものが戦後の映画界で一つにシリーズとなったことも歌舞伎の影響であることは間違いない。
第四章「おばけごっこは、みんな大好き!」、第五章「劇場を飛び出す歌舞伎役者」では、見世物になったり、鶴屋南北が菊五郎と合巻や読本などを書いたことより、さらに歌舞伎の怪談が広く知られるようになったことが分かる。
本書の白眉は第六章「フランケンシュタインとお岩、そしてその子供たち」でる。『東海道四谷怪談』を怪談物の代表作としてあげ、その母性を分析している。そこでは英国の女性作家シェリーの『フランケンシュタイン』と比較する手法がとられている。そして結論としては男の作者である南北の手になるからお岩の出産や母性の描き方には問題があり、ただ不気味な産婦として他者的に描こうとしていると結論付けている。この視点は新鮮であり、こう書くと失礼ながら女性研究者ならではのものである。さらに、何故『東海道四谷怪談』が愛好されるかを女性と男性に分けて書いているのも面白い。女性は幽霊となって夫に復讐するお岩を痛快に思い、男性は色悪という腹立たしい同胞が破滅するのがまた痛快だという。なるほどと自分が『東海道四谷怪談』に対して感じていた心の深奥の部分を言い当てられた気もする。
第七章「「化ける女」に化ける男」は、女形演じる女性霊が多いこと、そして異性装(つまり男性の女装やその逆)は、超自然的・非日常的であることが演劇の本来的な特徴であることと説く。第八章「恋するオサカベ」。これは私が不勉強であったが、五代目菊五郎が選んだ「新古演劇十種」にある『小坂部』は姫路城の天守閣に住むと考えられていた女怪が主人公で、これが泉鏡花の『天守物語』と同じ題材であるということをはじめて知った。この女怪を富姫として若き武士との恋を成就させる『天守物語』を歌舞伎の演目として成功させ定着させた玉三郎の技量を評価すると同時に歌舞伎役者がもつ優れた変身能力によるとしていることが特筆に価する。また、著者は怪談物の新作の可能性をこの『天守物語』に見る。まったく同感である。
本書を読むことにより歌舞伎の広い意味での怪談物がより面白くなったと思う。それにしても今年の納涼歌舞伎では怪談物の演目がなかったのは残念である。やはり納涼は怪談物を是非出して欲しいものである。