夜の部は、團十郎、仁左衛門、幸四郎の三人による内蔵助の競演が一番の見どころであった。
「南部坂雪の別れ」
團十郎の内蔵助は、仇討ちの本心を包み隠して、それとなく内匠頭の奥方瑤泉院(芝翫)に別れを告げるという、本連作のなかでは唯一黙阿弥の作品をふまえて書かれているという異色作である。国立の上演の際には省略された内蔵助の泉岳寺墓参とその場での羽倉斎宮(我當)との遭遇の場面が出ているのは分かりやすくてよいと思った。何故ならば、国立では愛之助演じる酔った羽倉斎宮の登場と内蔵助に対する罵倒がいかにも唐突の印象を与えたからである。
團十郎は、あくまで徹底して隠忍自重、自分の本心を最後まで明かさない。だから、ハラ芸で見せる非常に難しい役だと思うが、どちらかと言えば『仮名手本忠臣蔵』の由良之助を思わせるような、渋く、しかし懐の深い内蔵助であった。
芝翫は、これと言って起伏がなく、淡白な瑤泉院で、印象が薄い。しかも観劇した日は最近時々お目にかかる鬘を気にしてなおすような仕草をするのが気になった。我當は一本気で直情径行の学者をうまく見せて、團十郎を盛り上げていた。
「仙石屋敷」
この場は、討ち入り後に大目付仙石伯耆守に事の次第を届けて、討ち入りの様子を尋問を受けながら諸士が語るという構成になっている。舞台一杯に四十七氏が居並ぶさまは壮観である。ただ、物語の構成上、さほど面白い場ではなく、単独では上演し難いのも止むを得ない。仁左衛門の内蔵助は、梅玉の伯耆守に対して堂々と討ち入りに対する考え方を披瀝して、臆するところがない。立派な内蔵助ではあるが、仁左衛門で次の「大石最後の一日」を観たかったとも思う。梅玉は討ち入りの第一報を聞いた時のさばけた応接がやや軽いが、尋問は情理ともに備わっていて、良かったように思う。
「大石最後の一日」
この場は幸四郎が得意にしていて何度も演じている。だから内蔵助を情感たっぷりと演じているのはこの場にはあっていて悪かろう筈もないが、時代物で口跡が不明瞭になるような欠点はないもののいささか声をふるわせ過ぎの感もある。しかし、福助のおみのと染五郎の磯貝十郎左衛門の哀しい恋物語は、何度観てもよくできた話で、歌六の堀内伝右衛門の抑えた好助演もあって、思わず落涙しそうになった。幸四郎も福助もある意味では過剰とも言えるあざとさがあるのだが、青果の原作をそこなうにまでは至っていないから、このような演じ方もあっていいであろう。染五郎がこの場では咽喉の不調は感じさせず、仇討と恋のはざまで苦悩する青年を演じ切っていた。
総じて、今回の『元禄忠臣蔵』は、歌舞伎座さよなら公演として歌舞伎役者の総力をあげて丁寧に演じていて、大変内容の濃い舞台だったと言えるだろう。