当初観劇予定を入れていなかったが、評判を聞いて急遽チケットをとって観劇した国立劇場十二月公演。22日に観劇した。真山青果、坪内逍遥、岡本綺堂の三人に作になる新歌舞伎特集という趣向である。『一休禅師』の舞踊は初見であるが、『頼朝の死』と『修禅寺物語』は新歌舞伎の傑作とは言うものの、今までの観劇体験では地味な印象しか受けておらず、あまり食指が動かなかった。しかし、観劇して大正解であった。それは演技巧者の富十郎と吉右衛門を中心にして、緊密かつ濃厚な芝居を作り上げていたからである。
『頼朝の死』
鎌倉幕府二代将軍源頼家が尊敬していた父頼朝の死の秘密をめぐってその真相を知りたいと苛立ち、苦悩する姿、幕府と源家のためには絶対それを阻もうとする母尼御台所北条政子の対立を頂点に、実は頼朝をあやまって手にかけてしまった畠山重保、重保を恋い慕うが頼朝が死んだ原因が自分にあると知り、懊悩の末秘密を口走ろうとした侍女小周防、そして鎌倉幕府を守り抜こうと政子に助勢する大江広元の五人が、目に見えない火花を散らす舞台空間は一瞬たりとも気が抜けない、重厚で濃密なものであった。
吉右衛門二十四年ぶりという頼家は、珍しい憂愁の貴公子である。ただひたすら父の死の秘密を知りたいと性急に、また憑かれたように事を進めるから時に癇が高ぶっているようにも見える。青果特有の歌うような台詞回しも万全であり、だからこそ富十郎の政子との応酬が見応え十分である。富十郎もまた珍しい女形であるが、高く張った台詞も年齢を感じさせない名調子で、その気迫たるや劇場全体を覆うばかりである。有名な「家は末代、人は一世」という台詞が、まさにこれ以上秘密を知ろうとしたら、我が子を殺してまでも家を守るという気概に満ち満ちて胸に迫ってきたことははじめてである。
歌昇の重保は主君を弑してしまったが、その秘密を漏らすことが出来ない家臣としての苦渋を表現してあますところがない。この役の大きさ・重要性も歌昇によってあらためて見直すことが出来た。芝雀の小周防も可憐な恋する乙女が、頼朝の死の秘密を知ったがために、頼家に責められ、ついには重保の斬られてしまう、これまた一方の悲劇の人であった。歌六も重厚で申し分ない出来。
『一休禅師』
高齢の一休禅師が、地獄太夫という遊女と問答をしながら軽妙にまた艶やかに舞う長唄舞踊。どちらかと言うと富十郎の長女渡邊愛子の子供ながらも愛らしく踊る禿に目が行ってしまった。大舞台にも臆せず堂々と踊り、花道を引っ込むさまはただただ感心するばかりであり、富十郎・魁春を食ってしまってさえいたように思う。
『修禅寺物語』
富十郎の監修によるとある。吉右衛門初役の夜叉王である。面作師としての芸術家魂が瀕死の娘を前にしても発揮されるのが主題であるが、意外にして吉右衛門の老け役がやや気迫不足に感じられた。それは老けを感じさせるように意図的に台詞を歌わないためかもしれない。吉右衛門ならばこそさらに奥深い夜叉王が可能であろう。
芝雀の娘かつらが気位が高く、望みとおり頼家の室になるが、北条方の夜討ちにより、父の作った面をつけて奮戦しつつ息を引き取る役で、『頼朝の死』とは好対照の意志の強い女を好演している。段四郎の春彦が驚くほどの若さで、かつらの妹婿に見えるのだから、立派なものである。頼家つながりで、ここの頼家は錦之助。吉右衛門の頼家を見てしまうと線の細さが気になってしまう部分もあるが、癇性の性格で悲劇の貴公子将軍という雰囲気はよく出ていた。ほかに種太郎、高麗蔵も好助演。