今開催されている早稲田大学演劇博物館の
「六世 中村歌右衛門展−歌舞伎座とのあゆみ」に関連した演劇講座、竹本葵太夫の「六世中村歌右衛門を語る」を22日(木)に聴講してきました。当日は悪天候にもかかかわらず満員盛況でした。葵太夫は今月の御名残四月大歌舞伎の第一部「熊谷陣屋」の前を語り、第三部では「実録先代萩」御殿の後を語るという多忙の合間を縫って当演劇講座の駆けつけられたものです(竹本の今月の舞台出演は、
こちら)。以下は講演内容のレポートです。早稲田大学教授であり、演劇評論家としてもお馴染みの児玉竜一氏が司会・進行を務めました。なお、開会にあたり、前館長である鳥越文蔵先生がご挨拶をされました。鳥越先生は、葵太夫の仲人である由。また梅玉さんも会場に見えておられました。
聴講者には
「竹本葵太夫のホームページ」から師の略歴を抜粋転載したもの、ならびに葵太夫が六世歌右衛門晩年の二年半に務めた「妹背山婦女庭訓 吉野川」、「祇園祭礼信仰記 金閣寺」、「新薄雪物語」、「良弁杉由来 二月堂」、そして「国性爺合戦 楼門」の五つの演目の詳細を表裏一枚にした資料が配布されました。葵太夫の話はこの資料に基づいて児玉氏の質問に答える形で話が進められるとともに、適宜プロジェクターで秘蔵写真を映してくれましたので、大変分り易かったと思います。また最後に「妹背山婦女庭訓 吉野川」(平成3年4月歌舞伎座千穐楽、歌右衛門の定高、吉右衛門の大判事、鴈治郎(現・藤十郎)の久我之助、松江(現・魁春)の雛鳥)という貴重な映像の抜粋が映写されました。葵太夫は妹山を語っています。
葵太夫の竹本はよく響く低音で自在に語りますが、地の声もそのままの魅力的な低音です。またお人柄もご自身のホームページでも分かりますように大変謙虚で勉強熱心な方とお見受けしました。若くして多くの役者さんに引き立てられ、たくさんの賞を受賞されているのもよく分かります。ですから、最初は少々固かった印象がありましたが、司会の児玉氏の巧みなリードで話がほぐれてきますと、六世歌右衛門とのエピソードをはじめ19歳で初舞台の頃の話、そして当時の大幹部たちの言わば楽屋話を身振り手振りと声色で次から次へと語り、飽きさせませんでした。歌右衛門のお弟子さんである歌江さんの声色は有名ですが、葵太夫の声色も遜色ないものだった思います。
六世歌右衛門とのエピソードは順不同で次のような話などが披露されました。
・ 「祇園祭礼信仰記 金閣寺」では慶寿院役でしたから、葵太夫が爪先鼠の段を語っている時に歌右衛門がリフトで二階部分に上がってくる音が聞こえてくると緊張したこと。
・ 「新薄雪物語」では葵太夫が使っていた合引を歌右衛門が借りて打掛と同じ布で包み、自身が立ち上がる時の支えに使う工夫をしたこと。それを葵太夫が尻にひくのは申し訳ないと思ったこと。
・ 「良弁杉由来 二月堂」では、お弟子さんの僧が渚の方の手をひく時に罪人ではないのだから、と叱った話、また引っ込んだ後伴の僧で出ていた入ったばかりの役者さんが長く座っていたために足を摩っている側を「可哀そうだよ」と言いながら通るのが毎日の型になっていたこと。
・ 「国性爺合戦 楼門」では本来葵太夫の語りは御簾内であるが、ちょうど楼門上にいる錦祥女と同じ目線になることもあったためか、急遽下へ降りて文楽廻しに変更になったこと。その時の歌右衛門は「勿体無いから」と言っていたという。
その他歌右衛門は大変記憶力がよく脇役の端々まで覚えていて指導したことがあげられています。また実際に自分で演じてみせ、例えば「重の井の子別れ」の赤爺(本田弥三左衛門)など滅多に観ることができないものであったそうです。これは児玉氏が郡司正勝先生から聞いた話として補足したことですが、人魂の焼酎火の差金を使って見せたこともあったそうです。
葵太夫自身は榮緑さんという四回りも歳が上で、歌右衛門の注文の寸法を弁えた三味線の方に丁寧に教えてもらったお蔭で、それほど注文が付かなかったそうですが、それでも若い時代から注目して抜擢していただけたとはいえ、神様のような存在であり、側へ座ったり、舞台を観ていて目線があったりすると緊張して体が固くなったということです。
さて、葵太夫の話の中で傑作なのは、当時の大幹部に楽屋入りの挨拶をした時の様子です。今はふんぞり返る役者さんはごく稀です(ここで大きく笑いが起きましたが)が、当時でも一番丁寧なのは岡本町(ご承知の方も多いと思いますが、歌右衛門の当時の住まいをさして、岡本町と言っていました)の旦那ですと切り出して、梅幸、松緑、幸四郎、勘三郎、そして十三代目仁左衛門の見事な声色をも聴かせてくれました。児玉氏が「思いがけない芸を見せていただきました」と言うほどです。
「妹背山婦女庭訓 吉野川」で妹山を語る葵太夫はもう既に円熟した語り口で、吉右衛門さんも堂々とした大判事ぶりです。歌右衛門さんもこの定高が最後と思ったのでしょうか、幕が閉まったあと「ありがとう、ありがとう」と言い続けていたそうです。その時の記念として歌右衛門にサインをお願いしたところ、三味線の皮を保護する板に金地に美しい桜の絵と「雛飾るわずかのちりもいといけり」の句と魁春の落款のあるものをくださったそうで、葵太夫の宝物になっているとのことです。
葵太夫は竹本の序列で言うと上から四番目ですが、病気休養中の清太夫を別にしますと七十歳代がお二人で、六十歳台がなくていきなり49歳の葵太夫まで行ってしまいます。歌舞伎に竹本はなくてはならないものですから、後進の育成も含めて、葵太夫の今後に期待するところは多大なものがあるようです。しかし、十分その期待に応えてくださる逸材であることを再認識した演劇講座でした。