|
評価:
中川 右介
幻冬舎
¥ 945
(2010-05)
Amazonランキング:
15345位
Amazonおすすめ度:
迷惑な褒め殺し本
面白いけど、高い評価はできない
玉三郎オタクの悪質な妄想
|
本日購入して、この新書版330ページを一気に読み終わった。幻冬舎新書前作の『十一代目團十郎と六代目歌右衛門』に続く大変な力作である。当初その続編として構想されたようであるから、世代交代の物語としての「歌右衛門と玉三郎」の予定が、「二人が全面対決したわけでもないので、この構想はいったん放棄し、玉三郎を主人公にした物語に変更した」という。
筆者が玉三郎の舞台を初めて観たのは、1986年1月の国立劇場での『松竹梅雪曙』の八百屋お七であったという。その前年、4月に歌舞伎座での團十郎襲名披露公演で歌右衛門の揚巻の凄まじさに衝撃を受け、「歌舞伎は自分とは縁がないものだ」と思ったが、玉三郎の人形振りの美しさを観て、正反対の衝撃を受けた。「こんな美しいものがあるか」と。
僭越ながら、以前にも書いたが、私もほぼ同時期に同じような体験をしている。私はその翌年1月の国立劇場の『雷神不動北山桜』の『鳴神』の絶間姫を観て、この女形を今観ていかなければ、きっと後々後悔する!と。それをきっかけに現在に至る歌舞伎観劇を復活したわけである。そして、それが拙HPと拙ブログの源流になっている。
玉三郎の歴史(1980年〜1989年)
本書冒頭の「はしがき」に「玉三郎と同じ時代に生きているこのとの幸福−坂東玉三郎のファンのほとんどが異口同音にする「台詞」である」とある。まことに同感で、私も常々それを書いているように思う。それは「「いまという時代」に玉三郎という「奇蹟」が存在していることを知っており、かつこの「いま」がそう長くは続かないことを知っているからこそ、そこにめぐりあわせていることを「幸運」と感じるのかもしれない」。ゆえに、「玉三郎と同じ時代に生きているこのとの幸福」には格別の意味がある、と筆者が言うことは説得力があるのだ。
本書は玉三郎の約四十年を膨大な文献資料に基づいて、年代順に記述したもので、「現在、当たり前のように歌舞伎座で主役を勤めている玉三郎だが、彼がいま、歌舞伎座の舞台中央にいることが、どんなに「ありえない」ことなのか、どれほど「奇蹟的」なことなのかを、確認するための本でもある」。
筆者の狙いは十分に果たされたと思う。今までここまで克明に玉三郎の歴史を追った本はなかった。いかにして玉三郎は発見されたのか?そしてその売り出しにいかに父守田勘彌の深謀遠慮があったのか?さらには父を喪って歌舞伎界で孤立無援となった玉三郎(しかも御曹司ではない養子である)が歌舞伎を越えてさまざまな世界に進出していったか?そして、歌右衛門がいる歌舞伎座で主役となるまではいかにさまざまな模索があったのか?本書を虚心坦懐に読めば、自ずと見えてくることが多い。しかし、一番印象的なことは女形に「美しさ」を求めたファンの応援であり、またそれに真摯に応えてきた玉三郎の姿勢である。
本書の目次は次の通り。
・はじめに
・第一章 玉三郎と三島由紀夫
−莟の花の発見 〜1970年
・第二章 玉三郎と守田勘彌
−深謀遠慮の時期 1970年〜75年
・第三章 玉三郎と歌右衛門
−立ち塞がる女帝 1975年〜85年
第一節 桜姫−1975年
第二節 シェイクスピアと泉鏡花と三島由紀夫−1976年〜78年
第三節 文化勲章と単独公演−1979年〜82年
第四節 揚巻と鷺娘−1983年〜85年
第四章 玉三郎とさまざまな世界
−歌舞伎を越えて 1986年〜2001年
エピローグ 歌舞伎座さよなら公演
−あるいは御家再興 2009年〜10年
しかし、本書を読んでも歌右衛門と玉三郎との間がどんな関係にあったのかは文献資料では読み取れないようである。賢明な玉三郎は歌右衛門は憧れの人だった、と語るのみである。だから「中村歌右衛門が、坂東玉三郎に最も多くの影響を与えた人−憧れの対象であり、厳しい指導者であり、劇界最大の権力者−であったのは間違いない」という結論は当をえているように思う。
言うまでもないことであるが、御名残公演四月の第三部は『助六湯由縁江戸桜』であり、市川宗家の團十郎が助六を勤め、玉三郎が揚巻を演じて、歌舞伎座最後の幕は閉じられた。そこに筆者は江戸三座の座元の家である守田家の御家再興を見るが、歌舞伎座休館中の玉三郎は今後どのような方向へ進むのであろうか?「奇蹟の女形」玉三郎の足跡を本書で追体験しながら、私自身も歌舞伎の将来とあわせていろいろと考えることが多かった。