徒然なる日々の条々を、六条亭が日記風に綴ります。本屋「六条亭雑記」もよろしく。
 
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【2018. 08. 18 (土)】 author : スポンサードリンク
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歌舞伎座新開場柿葺落公演(三部制)の簡単なまとめ
昨日歌舞伎座新開場柿葺落六月大歌舞伎の千穐楽の第二部と第三部を観劇してきました。これで四月から三ヶ月続いた歌舞伎座新開場柿葺落の三部制による大顔合わせ公演は無事盛況のうちに幕を閉じました。七月からは若手が中心になった花形歌舞伎となり、次代の歌舞伎を担うであろう若手が勢揃いして通し狂言に挑みます。若手の真価が問われるとともに、今後のさらなる飛躍のための試金石となるでしょう。

この三ヶ月は大幹部が共演するいわゆる大顔合わせの演目がズラリと並び、火花が散るような緊張感ある舞台の連続でした。ですから、現在の歌舞伎の藝の水準を十二分に見せてくれたことは、われわれ観客にとっても待ち望んだ歌舞伎座という器の新開場とともに大いに嬉しいことでした。

演目も大幹部の当り役を主にして選定したことで新味こそなかったものの、非常に安定感があり、かつ高い水準の仕上がりになっていました。ただし、やはり團十郎と勘三郎が欠けた穴は大きいとも痛切に感じました。直前に亡くなった團十郎の務めるはずだった役は吉右衛門、菊五郎、幸四郎が代わったのですが、とりわけ吉右衛門が三ヶ月で合計八役を演じる大車輪の活躍でした。しかもそのどれもが今の吉右衛門の到達している藝の高みのすべてを見せてくれており、後に続く若手のよきお手本になったのではないかと思います。

しかしそれだけにこの三ヶ月の公演で溜まった疲れも心配です。事実、六月は『俊寛』の丹左衞門と『寿曽我対面』の工藤祐経の二役を演じていた仁左衛門が、千穐楽は持ち直していたものの、十二日に観劇した時には台詞も張りがなく、全体として生彩を欠いていました。菊五郎もさすがに六月はいささか体の切れが悪くなっていました。大幹部たちは現在皆70歳〜60歳台です。藝の蓄積はあっても確実に体力は落ちています。これからは後進の育成と藝の継承も大事な使命ですから、彼らの体力に無理がかからないように考えながらの演目選定を第一にしてほしいと思います。

そうは言っても観客が入らなければ興行として成り立たないのですから、大幹部の分を若手花形が補って魅力あるものにしてもらいたいものです。世代的に言えば、大幹部に続くのは七月以降の花形歌舞伎に出演する染五郎、菊之助、松緑、愛之助、そして海老蔵、勘九郎、七之助らになるでしょうから、彼らの頑張り次第でしょう(獅童の扱いが不明ですが)。事実この三ヶ月は成長と努力の跡がよく分かる活躍ぶりでしたから、期待は高まります。間の世代になる福助、橋之助、翫雀、扇雀、錦之助、孝太郎らは役柄もあり難しい立場になりますが、彼らのニンを生かした配役で盛り上げてもらいたいものです。

またその後に続く若手花形候補として歌昇・種之助兄弟、米吉、梅枝・萬太郎兄弟、巳之助、壱太郎、新悟、(尾上)右近らがあげられ、松也と隼人を加えると彼らの精進次第で将来が楽しみになります。しかもさらに鷹之資、虎之助、千之助、玉太郎、金太郎、大河君ら続いており、これに勘九郎の子息や海老蔵の子息が加わることを考えると歌舞伎座新開場前に垂れ込めていた暗雲はだいぶ晴れてきたようにも思えます。

繰り返しになりますが、藝の継承は口伝によることが大部分と聞いていますから、その難しさはわれわれ素人には想像でしか言えません。しかし、日常生活習慣がますます江戸歌舞伎の時代とは異なってきた現代においては、とりわけ女形の育成もしかりですが、後進の育成は困難なことも多いでしょう。しかし、四百年以上続いた歌舞伎は幾多の受難にも耐えて不死鳥のように蘇り、庶民に愛され続けた世界に誇ることができる伝統芸能です。五代目として新開場した歌舞伎座という本拠地ができたのですから、そこで上演される歌舞伎がさらにパワーアップすることを心から望んでやみません。

歌舞伎座新開場柿葺落公演は世代交代の変わり目と将来的には位置付けられると思います。

(追記)六月大歌舞伎第一部、第二部の感想がまだアップできていません。月を越してしまいますが、追って記事といたします。
【2013. 06. 30 (日)】 author : 六条亭
| 歌舞伎 | comments(2) | trackbacks(0) |
ヴェルディ:オペラ全集、ブルーレイ・DVDの国内盤いよいよ発売!
今年はヴェルディ生誕200年のアニヴァーサリー・イヤーですので、いろいろな企画・公演があります。そのなかでもヴェルディの26のオペラすべてを収録したTUTTO VERDI(ヴェルディ:オペラ全集)が一番の注目の的でしょう。ブルーレイとDVDが両方販売されていて、しかも輸入盤でも嬉しい日本語字幕付きです!

すでに輸入盤ではセットで発売済です。分売も逐次出ています。このたびキングレコードから詳細な日本語解説書(20〜24ページ)付きで分売が開始されました(6月から9月まで)。ヴェルディのオペラは人間関係が複雑な場合が多いのですので、このような解説書付きは大いに鑑賞の助けになります。

TOTTO VERDI(ヴェルディ:オペラ全集)

本日付の第一回の発売は中期の傑作5点です。

(1) 『リゴレット』
(2) 『トロヴァトーレ』
(3) 『椿姫』
(4) 『シチリアの晩鐘』
(5) 『シモン・ボッカネグラ』













【2013. 06. 26 (水)】 author : 六条亭
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宮尾登美子 「柝(き)の音(ね)の消えるまで―追悼市川団十郎丈」 を読む
昨日18日(火)の朝日新聞朝刊コラムで雑誌『新潮』7月号に宮尾登美子氏が「柝(き)の音(ね)の消えるまで―追悼市川団十郎丈」 を書いていることを知りました。最近は宮尾氏の書いたものを読む機会が絶えて久しくなかったので、早速読んでみました。雑誌『新潮』7月号の目次は、こちら。なお、団十郎さんの表記は團十郎と書くのが正しく、私は常にそのようにしていますが、ここではそのまま団十郎さんと書くことにします。

「それはおよそ思いもかけない、不意打ちの訃音だった」ではじまる文章は団十郎さんの思い出を自作の『きのね』創作秘話にからめて随想風に追悼したものでした。『きのね』はご承知のように十一代目団十郎夫人、つまり十二代目団十郎さんの亡きご母堂を主人公にした長編小説です。宮尾氏はその主人公を光乃と名付け、この追悼文でもその名前を使って書いています。

宮尾氏は冒頭自分が歌舞伎に親しんだ最初は戦後の土佐の農家で体験した村芝居だったと言います。生家が芸妓紹介業だったことが創作の原点だと思いますが、父親が歌舞音曲を好んだので、ご本人も三味線が弾け、踊りもできた。そこで素人芝居とはいえ、『妹背山婦女庭訓』のお三輪と『奥州安達原』の袖萩を演じたそうですから、なかなかのものです。

その後作家を目指していた宮尾氏は昭和28〜29年頃に雑誌で当時海老さまと言われて人気の高かった後の十一代目団十郎の家族のグラビア写真を見て、夫人がいわゆる梨園の妻というイメージとかけ離れた控え目でいて、それでいて強靭な何かを持っているのを知り、いずれこの人を主人公にした小説を書きたいと思ったそうです。

それから資料を集め、取材を進めましたが、十一代目団十郎は惜しくも早逝してしまったものの、人気歌舞伎役者の家族のことを書こうとすることに対して強烈な横やりが入ったとのことです。しかし、宮尾氏も利かん気の土佐の女の血が色濃く流れていて、かえって書くと公言したため、十二代目団十郎の襲名もあり、興行側の松竹からN氏がノックアウトしようと何度もアプローチがあったと言います。このN氏はイニシャルになってはいますが、歌舞伎を知っている人が読めば後に会長までなったあの方とすぐ分かります。

歌舞伎役者の家族の問題をスキャンダラスに小説に書かれたら興行の大事な稼ぎ頭、興行収益に大きく影響すると懸念したことからの動きだとは思いますが、宮尾氏の作家としての力量を見誤った皮相的な対応だったと思います。ただ、宮尾氏の作家魂はそのような圧力にもめげず、団十郎さんに「生前にはドラマ化は絶対にしない」と約束をし、また「これだけはどうしても書いてもらっては困る点があれば言ってください」とも話したそうです。それに対して団十郎さんはイエスともノーとも言わず、そのまま昭和63年9月の朝日新聞朝刊連載開始となりました。宮尾氏はそれを十二代目団十郎さんのおおらかな優しさととらえています。

読者の反応は凄まじく、作者が書き続ける勇気を与え、支えたようです。それが十二代目団十郎さんを出産した時に駆け付けたお産婆さんを直接取材する機会に恵まれ、あの崇高な「聖母子」の章ができあがったのです。宮尾氏は本追悼文の誄詞としてこの「聖母子」の一部抜粋を掲げて哀悼の意を表しています。

宮尾氏の作家としての不屈の信念が無ければ、この『きのね』も生まれなかったでしょうし、光乃と呼ばれた女主人公の苛烈なまでの影としての生きざまを知ることはできなかったでしょう。本追悼文の一読をお薦めします。

なお、拙本HP「六条亭雑記」の読書手帖の宮尾登美子の項にて、この『きのね』の読書レビューを書いていますので、あわせてご覧いただければ幸いです。

(追記)この追悼文末尾に随時掲載「わたしの文学的回想録」1とありますから、宮尾登美子氏の随想が今後も時々読むことができそうです。
【2013. 06. 19 (水)】 author : 六条亭
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国立劇場12月歌舞伎公演は忠臣蔵にちなんだ演目
国立劇場12月歌舞伎公演がサイトにアップされました。こちら。

忠臣蔵にちなんだ演目としか分かりません。また出演は吉右衛門ほかとのみ発表されています。

2013年12月3日(火)初日〜26日(木)千穐楽
開演時間 12時開演 ただし、13日(金)・20 日(金)は4時開演

成澤昌茂=作
織田紘二=演出
・主税と右衛門七(ちからとえもしち) 一幕三場
       ー討入前夜ー
       
   第一場  大野屋呉服店の離れ座敷   
   第二場  大野屋母屋の一座敷
   第三場  元の離れ座敷
   

奈河七五三助=作
松貫四=監修
いろは仮名四十七訓(いろはがなしじゅうしちもじ)
秀山十種の内
・弥作の鎌腹(やさくのかまばら) 一幕三場       
       
   第一場  百姓弥作住居の場   
   第二場  柴田七太夫邸の場
   第三場  元の弥作住居の場


河竹黙阿弥=作
国立劇場文芸研究会=補綴
・忠臣蔵形容画合(ちゅうしんぐらすがたのえあわせ)
       ー忠臣蔵七段返しー
        藤間勘祖=振付
      
   大  序  鶴ヶ岡八幡宮社頭の場   
   二段目  桃井若狭之助館の場
   三段目  足利館門外の場
   四段目  扇ヶ谷塩冶判官館の場   
   五段目  山崎街道の場
   六段目  与市兵衛内の場
   七段目  祇園一力茶屋の場   
   
(出演)
   中村 吉右衛門 ほか
【2013. 06. 18 (火)】 author : 六条亭
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山川静夫『歌舞伎は恋 山川静夫の芝居話』(淡交社)を読む


山川静夫さんが雑誌『演劇界』などに執筆した芝居随想をご本人の傘寿を節目として一冊まとめられたのが本書です。「大向うから声をかけたり、声色をやったりして、学生時代より数えればちょうど六十年。その間、歌舞伎のおかげで贅沢な知己を得て、多くのことを愉しみながら学び、今なお、歌舞伎に恋しています」(「あとがき」より)。

山川さんは大向うとしても現役の方と同じように初日など三階から声をかけていらっしゃる姿を時々お見かけします。声に張りがあるだけではなく、外見も若々しく見えて、とても傘寿とは見えません。大変親しみを感じる方です(もちろん、面識がある訳でもなく、こちらの一方的なものですが)。

本書は次の四章から構成されています。
第一章 歌舞伎は恋
第二章 歌舞伎のたて糸・よこ糸
第三章 歌舞伎ことばあれこれ
第四章 忘れられぬ歌舞伎役者

第一章では歌舞伎座のこと、大播磨と言われた初代吉右衛門のことなど書かれていますが、最近の芝居に対する危機感がいくつか表明されています。「濃味・薄味」で地方巡業で薄味の歌舞伎を見せることへの疑念を書き、「のっぺらぼう」では芸ののっぺらぼうはよくない、とせりふ廻しに陰陽・強弱・高低・遅速の使い分けを強調します。また季節感のある演目選びを望む裏には芝居の内容や配役に気遣う現状に対する苦言があると思います。さらには歌舞伎には演出家が存在しないのが通例ですが、その不在の領域に串田和美や野田秀樹が進出したことに対して成果は認めつつ「あの演出は果たして歌舞伎だろうか」と疑問を投げ掛けています。

ご本人が認めているようにやや保守的な考え方ではありますが、傾聴すべき意見です。ましてや勧進帳での弁慶の飛六方の引っ込み時に観客が手拍子をすることに関して、六方のリズムが常間(一定の間)ではないから、と反対されているのはまったく同感です。

歌舞伎のことばあれこれでは「めのこ勘定」のことを話題しながら、役者の代数を文章に書く時に算用数字ではなく、漢数字をと主張するのももっともな意見です。私も文章を書く時必ず留意して漢数字を用いています。

忘れられぬ歌舞伎役者に関しては猿之助たちのスーパー襲名、多賀之丞のエピソードなど読んでいても楽しいですが、雀右衞門、又五郎、芝翫、富十郎、そして勘三郎と團十郎の思い出に触れているところはわれわれが喪った役者たちの大きさにあらためて粛然とします。

本書でもっとも貴重だと思えたものは54ページにある昭和30年当時の吉右衛門劇団の、いわゆる大部屋の女形たちの写真(しかもサイン入り!)です。勘三郎一門の最古参の小山三、亡くなった千彌、歌江、吉之丞などの若き時代のものです。

本書はその他のエピソードや演目の解説もあわせ歌舞伎好きの方には一度は手にとっていただきたいものです。

【2013. 06. 16 (日)】 author : 六条亭
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『坂東玉三郎講演会ー演じるということ』ー明治大学リバティアカデミー講座受講記(その四)
玉三郎さんの講演会の受講記もまとめ方の手際が悪く、長くなりまして四回目です。今回でようやく完結です。

体験型講習は玉三郎さんが舞台上でやってみせてくださる所作・台詞を参加者全員が実際にやってみるという稀有なものでした。玉三郎さんは素のままでも立ち姿が非常にスッキリとしていて綺麗です。それは姿勢の良さだけではありません。心を残してふっと振り返る所作も優雅です。講演会用に壇上にしつらえられた花を見て、花には恨みがありますから、と言いつつふっと振り返る、ただそれだけなのですが、実にわれわれ素人から見ても無駄のない、それでいてたしかに演じているのが分かります。しかも歩いていて急に意識が芽生えて振り返るのと意識を残して振り返るのとではまったく違うことが玉三郎さんの所作を観て納得できました。

齋藤氏はせっかくの機会だからと参加者全員を起立させて、まずそれまでの緊張をとくために軽く柔軟体操。とくに手の先が冷たいといけないと手をブラブラさせる運動をさせて、そこから玉三郎さんの手がどこから生えているのかと話を振りました。玉三郎さんは上衣を脱いで、「すべての動きが仙骨(注 骨盤の中心にあり、背骨を支えている身体の要となる骨)から手が伸びるかどうかにかかっています」と説明し、実際にやってみせてくださいました。たしかに仙骨から玉三郎さんがす〜っと手を伸ばすと綺麗に長く伸びます!大相撲の土俵入りが綺麗に見えるの同じ原理だそうです。

これはわれわれ簡単にはできませんから、ここから実際に玉三郎さんがまさに手取り足取りの如く細かい実技指導が始まりました。皆さんもご存知のように『京鹿子娘道成寺』の「花の外には松ばかり」ではじまる烏帽子をかぶって踊る場面の最後のところに「 我も五障の雲晴れて 真如の月を眺め明かさん」という長唄の詞章があります。この「真如の月を眺め明かさん」を例題にして、右下に意識を置いて、左手をす〜っと伸ばして会場のはるかかなた(過去または未来)まで意識を解き放つ練習を繰り返して行いました。最初は舞台正面を向いて練習しましたが、次に会場前方の参加者は後ろを向いて、つまり後方の参加者と向き合う形で行いました。これは結構恥ずかしいものですが、玉三郎さんと齋藤氏の魔法のような話術にかかったように参加者の皆さんは一生懸命練習していたと思います。ここで玉三郎さんが強調したことは演技には感情を込めなければいけませんが、それに見合った過不足ない形が必要であるということです。感情にとらわれると形ができないですし、逆に形にとらわれると感情が出ないということです。

貴重な体験型講演会のまとめに入り、参加者が着席後また対談が再開されました。

齋藤氏「今までの講演でこれから皆さんの舞台を見る目も変わると思います(玉三郎さんも「同感です」)。ところで玉三郎さんはインタビューを拝見すると下手なものを見ろ、何でも見ろと教わったと書かれていますが」

玉三郎さん「ひどいという噂がある芝居があったら見てきて、どうひどかったかちゃんと分解してこい、そのひどい芝居の中に自分より優れているものを見付けられるかどうか?素晴らしいという芝居があったら見に行きなさい。その中に改善すべきところを見付けられるかどうか?これは祖父の教えを父を通じて教えられました。またもう一つの教えです。自分が芝居をできると思わなければ舞台に出て行かれないものだが、その代わりに楽屋に帰って来たら、どんな看板の下の役者より上手いと思ってはいけないよ、どんな下手な役者より一段階下と思って生きて行かれるようにと教えられました。僕にとっては凄い教えでした。どんなにあいつは下手だなと思う役者よりも自分の方が下手だと思っていることを分からせる教えですね。それは離見でもありましょうし、分解力でもあるでしょう」

齋藤氏「柔道でオリンピック三連覇した野村忠宏さんにインタビューしたことがあるのですが、野村さんは負けることしか思い付かないと言っていました」

玉三郎さん「分かります」

齋藤氏「シミュレーションすると全部負けることばかり。で畳に上がった時はには金メダルを取るのは俺しかいないと思って立てるそうです」

玉三郎さん「よく分かります。皆さんが自分のことを綺麗とかいろいろなおっしゃってくださいますが、本当に自分は駄目だと思わなければ稽古できないです。自分のことを心配でないと稽古できないのです。いいと思ったら明日研究できないです」

齋藤氏「ポジティブ・シンキングというのが世の中に流行っているのですが、とにかくポジティブ、ポジティブでなくてもいいということですかね?」

玉三郎さん「こう思って稽古したんだけれど幕が開いたからにはやらなければいけないのです。そこのところでは駄目かもしれないとは思わないです」

齋藤氏「そうなると、皆さんに一回舞台に立たせた方がいいということになりますね。本当は今日は時間があれば学生に舞台に立たせて指導していただこうかなと考えていたのですが。やはり舞台に立つと腹が決まりますね。その腹なんですが、臍下丹田というのを中心に動くというのが歌舞伎にもあると思いますし、玉三郎さんの中心軸は凄いものなので、今日はちょっと皆さんに臍下丹田というか中心軸について、腹を決めるのとセットでその感覚を持ち帰っていただきたいのですが 」

玉三郎さん「僕はあまり分からないのですよ 」

齋藤氏「出来過ぎてしまって、長嶋茂男状態ですかね」

玉三郎さん「実は僕は足を悪くしましてエネルギーが無くて、無駄な筋力を使わずにターンしながら踊るということを工夫していました。そうしましたら、軸で踊るしかなかったんです。それは自分の負の部分からなんとか人さまと同じところにいられるために身体が本能的に工夫したものなのです。ですから、自分に軸があることを全然分からないのです」

齋藤氏「なるほど。ここでも天才は試練を経ると違うところに行ってしまうのですね。無駄な力を抜くというのも大事なことでしょうか?」

玉三郎さん「無駄な力を抜くというのは最近勉強したことなんですが、胸が開いていて、首が前に出てない。ということは(と言いながら実際に立って実演して見せる)反り返るのではなく、真っ直ぐ立ったまま胸が開いていて首が後ろにさがっている、この形でないと感情は出ないです」

参加者もその場で実際にやってみました。

玉三郎さん「綺麗ですね。これは理論にないことですが、体操でもバレーでも胸が開いていないと綺麗ではないですね。身体が持っている構造上の基本なんです。胸を張る、姿勢をただすという言葉がありますが、人間の基本なんです」

齋藤氏「急に美しくなりますね」

玉三郎さん「はい、美しいです。衣裳とかお化粧の美しさではなくて、ここから美しくならないといけないです。ここさえ出来ていればどこへいっても綺麗です」

齋藤氏「これに感情を乗せましょう」と、また参加者が「ありがとう」と言う体験学習。

玉三郎さん「それと子音の擦り方があります。感情が濃くなります。子音というのは擦れば擦るほど感情が立ってくる。役者の表現能力はどこから話していいか分からないほどたくさんあります。三年くらいかかりますかね」

齋藤氏「今日は演技論についてここまでやるとは思っていませんでした。ご自分と対話するということは皆さんに感覚的に理解していただけたと思います」

玉三郎さん「もう一つ、先ほどの非現実的空間について触れますと、ご自分の生まれた頃というのを思い出してください。またはご自分の記憶がある時、例えば5歳の時を思い出してください」

参加者は皆さんめいめいに思い出す。

玉三郎さん「ありがとうございます。本当に存在が無くなるでしょう。舞台で鷺になった時にふっと自分の過去世を思い出していると、動いているのに思考が無くなると半透明に見えるのです」

齋藤氏「ちょっとあの世に」

玉三郎さん「自分で思い悩んだり、過去のことを思ったりして、言葉が立体的になります。言い回しの中にしっかりと時間と空間が明確に羅列しなければ言葉にできません。また演じていながら、それが技術に見えない」

齋藤氏「今日は皆さん理解度が深いです」

玉三郎さん「でも今日は学生さんの方は楽しく分かっていただけたでしょうか?」

大きな拍手。

齋藤氏「学生の数が多いですね。開演前に学生へのメッセージをとお話ししたのですが、そのなかで玉三郎さんは本当にいいものをたくさん見るように、と実物に会うように言うことでした」

玉三郎さん「最低で人間に会うように。その人から何か聞いて、あれはいいよと言われたら見る、その人に口伝で教わることが大事です。言葉と言葉、一対一で教わる大事さです」

齋藤氏「こういうライブでもいいですよね」

玉三郎さん「実際はいいです。会話ができますから」

齋藤氏「この空気を味わった人は生きている玉三郎さんの実に会っていることになりますから。玉三郎さんは時々現実の人間のものかどうか分からないことがあります」

玉三郎さん「どこか飛んでいますから」

齋藤氏「玉三郎さんの舞台を拝見しているとちょっと人間離れしています。今日学生に言ったのですが、こういう超一流の方が来てくれることが大事だ、この空間に身を置かないと意識のシャワーを浴びられないよ、と。今日はたくさん浴びることができました。先ほど最近はスマホなどで情報を得て、実物に会わないで過ごしてしまうことが心配だとおっしゃいました」

玉三郎さん「とても心配です。やはり究極人間と会わない訳ですから、感情も出てこないでしょうし、人との対話もできないだろうし、人とも会うこともできないでしょう。そこがとても心配です」

齋藤氏「歌舞伎の舞台は実ですよね。その時だけ成立している空気が大事ですよね」

玉三郎さん「でも、その前に本当に会いたい人、話を聞きたい人に実際に会うことが大事です」

齋藤氏「玉三郎さんはいろいろな人に会われていますよね」

玉三郎さん「はい、いいろいろな方に会えて幸せでした。ですから、それで幸せだと思う感覚を皆さんにも持っていただきたいと思います。大変楽しい会でした。ありがとうございました」


予定の時間を15分も超過した体験型講演会でした。内容が濃く、充実したものでした。玉三郎さんが話されたことは、明晰であるとともに演じることに対して方法論的に明確です。一観客として一々腑に落ちることばかりでした。またご自分の身体能力をよく理解して演じ、踊っていることがよく分かりました。普段われわれが観客として接する舞台で魅了され、また大いに共感する役作りの秘密の一端に触れた思いでした。

もうこれ以上私が付け加える必要はないでしょう。是非とも玉三郎さんが話されたことを再度読み返していただきたいと思います。

最後にこのような講演会を企画・開催をされた明治大学と絶妙な対話と進行でこの会を盛り上げていただいた齋藤孝教授にあらためて感謝の意を表するとともに、続編的な講演会開催を切望して四回にわたる受講記を締め括りたいと思います。
【2013. 06. 15 (土)】 author : 六条亭
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『坂東玉三郎講演会ー演じるということ』ー明治大学リバティアカデミー講座受講記(その三)
(その二)から少々時間が空いてしまい、お読みいただいている方には申し訳ないですが、玉三郎さんと齋藤氏の対談の続きを(その三)として続けます。

齋藤氏「玉三郎さんが解釈してこれは完全に掴んだ役というはなんでしょうか?例えば揚巻などはいかがでしょうか?」

玉三郎さん「明治、大正の大先輩の写真を見て、真似をします。その人になりすまそうとします。でも現代の衣裳、鬘や照明など全然違うのです。演技の方法も違います。でもそれはそれなりに違うんだけれども写してゆく。入念な用意する時間があり、考える時間があります。お化粧して音楽に誘われて肩に手をかけて出てゆく。スッと観たとき花魁が実際そうだっだかは別問題。あ〜、そうかと思ったところからはじめないといけない」

齋藤氏「実際の舞台ですから、取り乱すのが本当だったら見づらいですよね。取り乱す姿が美しくなくてはいけませんよね」

玉三郎さん「それでいて十分取り乱しているように見えなければいけない。取り乱しながらどこかコントロールされている」

齋藤氏「皆さん普段やっていらっしゃる取り乱しは美しさとは関係なくやっていらっしゃると思います。今日は会場の皆さんに何をしていてもどんな瞬間でもどんな感情でも美しくあることを要求したいですね。どうしたらそれを実現できますかね?」

玉三郎さん「やっぱり離見でしょうね。醜い取り乱しをしていてもちゃんとコントロールされている。自分を見ている。意識が自分を離れている」

齋藤氏「離見の見は有名な世阿弥の言葉ですから、ご存知ですよね。玉三郎さんの場合、どのくらいから見ているのでしょうか。後頭部あたりとか」

玉三郎さん「いろいろな距離です。自意識が強いのと離見とは似ていて違います。自意識だけではコントロールされないです。(外側から冷静に見ているのでしょうか?という齋藤氏の質問に対し)冷静に見ています」

齋藤氏「皆さんが怒りにかられた時にちょっと美しく怒れる目付きとか、手付きとか、教えていただきたいですね。僕は世の中の男性が可哀想だと思っています。男性は早死にしてしまいますからね。女性はもっと優しくなくてはいけないと考えています」

玉三郎さん「女形で怒ってる場面が思い浮かばないですね。取り乱している姿がを見ることが本当に気持ちよくなくてはいけないですよね。酔っ払って取り乱しているのがなんて心地いいのだろうという酔っ払いの姿!四谷怪談の醜くなって取り乱して、おめおめおくものか、と言っていても、あ〜、なんと心地よい、もっともだというところへ持っていかなけてはいけない。そうでないと演劇的に成り立たないと思います。非常に内緒話的ですごく暗く醜くなって取り乱しているのが、密かに自分のためだけにやってくれていて、自分の心のなかでも同じような取り乱す嫉妬心があるのだけれども、演じてくれることによってもっともだと自分の気持ちが浄化されるということがあると思います」

齋藤氏「なるほど。四谷怪談をやるとスッキリするのですね」

玉三郎さん「いや、僕は四谷怪談はスッキリしないですね。あんまり僕はやらないのですが、桜姫という役ですと恋人が自分の敵だと分かると殺してしまいます。勧善懲悪というか敵討ちをすることによって浄化という意味でスッキリとするのでしょうね」

齋藤氏「演技すると浄化されるというのはあるのでしょうか?」

玉三郎さん「あります。浄化されなければ、僕はやめています。浄化されることによって今日も答えが出ています。やってよかった。また翌朝起きて不安になる。その繰り返しです。不安がなかったらもうたぶんやめているでしょう。あるいは不安が多いとやはりやめているでしょう。そのバランスが微妙なところですね。毎日不安でなくては確認できないですし、不安が多すぎたら確認することもできないですね」

齋藤氏「悲劇を見たらスッキリした顔で帰る方がいますが、あれは悲しみの中にある浄化力でしょうか?」

玉三郎さん「もし悲しみで涙を流したり、可哀想だと思ったら、それは浄化されている。涙を流すことはすごくいいことだそうです」

齋藤氏「突然ですが、アリストテレスがカタルシスということを言っていますが」

玉三郎さん「浄化されるというのはカタルシスです。ただ僕が本当にカタルシスという語彙を持っているかどうか分からないので、浄化という言葉を使いました」

齋藤氏「ギリシャ悲劇を見るとたまっていた感情がどっと流れ出て、レヴェルが高いと言えますね」

玉三郎さん「『メディア』など愛している人のために自分の子供を殺してしまうが、それでもカタルシスを与えて、お客様にもそのカタルシスを与えます。日本の演劇は神事や仏教に根差していますから、浄化させるという思いが強いと思います。話しは飛びますが、作家の方が浄化されやすい人だと浄化されますが、浄化されない人の場合は浄化されにくいです。四谷怪談は特別ですが、そうですね」

齋藤氏「浄化系だとどういうものがお好きですか?」

玉三郎さん「僕のやっている歌舞伎はほとんど浄化されますね。鷺娘を例にとってみますとしっかりと死ねるので、また道成寺はしっかりと嫉妬できるので、浄化されます。道成寺は釣鐘を象徴にして、人生のすべてが叶わなかったと思い切れる。(感情もあるところまで行き着いて純度が高まると)浄化される」

齋藤氏「一般的に皆さんは感情を純化した方がいいのですか?」

玉三郎さん「出した方がいいと思います。しまいこむと大変だと思います。しまいこんでしまって出せないた人のために演劇があるんではないでしょうか。自分ではそこまで表現し切れない、それを代わりに代弁します。だから、、コミュニケーションだと言ったのです」

齋藤氏「自分の感情ではないけれど感情の共振があって、自分の中にある純度の高いわだかまりを一緒に流してくれるというものですかね」

玉三郎さん「感心、感激、それが訳もわからず浄化されると感動になるのです」

齋藤氏「そうするとガンジス川はいろいろなものを死体まで流すのですが、でも聖なる川だそうです。そこに入ると魂も洗われると言います。そうすると歌舞伎座はガンジス川ですかね?」

玉三郎さん「当然だと思います。事実として死体が流れてくるかは分かりませんが、そのような感情、そのような人種がうごめいて、流れてゆく。ですから、言葉は汚なくなりますが死体や汚物が本物の感情でないとガンジス川にならないですよね。浄化されないですね。プラスチックやスポンジでは駄目ですね。またプラスチックやスポンジになるまでの技術ができていない役者さんにはイライラしますね。まあ自分もそうなっているかどうかは分かりませんね」

齋藤氏「お客様の目は比較的確かでしょうか?」

玉三郎さん「かなり確かです。ほとんどの方が確かです」

齋藤氏「寝に来たような観客を見た時、ガンジス川につけてやろうとか思いませんか?」

玉三郎さん「年齢からくるものかもしれませんが、こだわらなくなりました。裏話になり申し訳ないですが、『阿古屋』で三曲弾くものがありますが、お客様がいるあたりをじぃっと見ていなくてはいけない。そこで楽器を演奏しなくてはならないのです。お客様のなかにはご自分を目立たせようという方もいます。それに惑わされないようにどうしたかと言いますと、ランプをじっと見るように練習しまして、お客様のことがまったく気にならなくなりました。僕は遠視で目がとてもよくて、一番後ろの人が誰かが分かってしまうくらいなのです。そうやって芝居に集中すると何も見えないです。空気を感じて最大を尽くしています。それしか後悔しない一日を送る方法がないのです」

齋藤氏「先日道成寺を拝見したのですが、前の演目で寝ていた男性四人が玉三郎さんの踊りになったら、起きましたので、驚きました。玉三郎さんは強い意識の線のようなものを発しているのではないですか?」

玉三郎さん「僕の一番はじめの話にはなかったのですが、一番大事です!自分が見えている感覚のほかの世界です。それがなかったら、大勢の前でできないです」

齋藤氏「玉三郎さんはただ美しいというだけではなく、意識の深いところで金剛石のような輝きが皆さんに伝わるのではないかと思います」

玉三郎さん「それが一番大事で、自分の感情・稽古・意識が満ちてくると自分の気が会場を越えて遠く放たれます。(道成寺の詞章の一部である『 真如の月を眺め明かさん 』を例に説明)それをお客様は感じていただけると思います」

齋藤氏「玉三郎だけは意識の線を張っていて、そこから出る意識の強さが際立っていて尋常ではないと思います。それではせっかくの機会ですから、それを実際に玉三郎さんの指導でやってみましょう」

ということでこの後は会場の参加者全員が起立して体験型講習になりました。(続く)
【2013. 06. 13 (木)】 author : 六条亭
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『坂東玉三郎講演会ー演じるということ』ー明治大学リバティアカデミー講座受講記(その二)
(その一)に続く受講記(その二)です。玉三郎さん単独のお話しは約20分弱ですが、大変凝縮した、中身の濃いものでした。

玉三郎さんは「自分の支離滅裂な話をベースにしまして、齋藤先生に質問していただくことによりまた内容を補足しながらお話ししたいと思いますので、お呼びします。実は齋藤先生は自分があまりしゃべると玉三郎さんのしゃべる時間が無くなってしまうと心配していましたが、その時は僕が止めますから」と会場の笑いを誘いました。

齋藤氏は登場するやいなや今までのお話しを分かった方はどのくらいいますかね?確認したいと会場の参加者に向かって聞いたところ、かなり大きな拍手がありました。齋藤氏は皆さん強気ですねと言い、玉三郎さんはちょっとお世辞があると思いますと答え、爆笑。齋藤氏の軽妙な話術とこれらのやり取りで会場もリラックスした雰囲気になった後、齋藤氏が具体的に質問して玉三郎さんが答える対談形式になりました。

齋藤氏「演じることはすべてコミュニケーションとありましたので、この点を深めてゆきたいと思います。まず日本を代表する女形でいらっしゃるわけですが、男性が女性を演じるということにギャップがありますが?」

玉三郎さん「究極違うものを選んでいますね。距離の大きいものを選んでしまいました」

齋藤氏「ギャップが大きいなかで演じてこられたことで気が付かれたことはなんでしょうか?」

玉三郎さん「厳密に言うと今の時点で気がついたことと明日ではまた変わります。ですから答が固定できないまま、もうちょっともうちょっと、と思ってどんどんやって来てここまで来てしまいました。自分は不安症なんですね」

齋藤氏「何回か繰り返して演じてきた役があると思うのですが、年代による差があると思うのですが?」

玉三郎さん「平たく言えば、自分の人生の場面で出会った感情の積み上げで容易に演じることができますね。例えば『隅田川』では男の子を失った悲しみを表現しなければならないのですが、自分には子供はいません。能役者の方にうかがったところ、自分の最愛のものを失ったところから探してくださいと言われました。若い頃は失った最愛のものを探すのは大変ですが、歳をとってくると容易に見つけられるんですね。言わば感情の抽斗(ひきだし) が増えます。 抽斗が多くなり、複雑にもなります」

齋藤氏「母親を演じる時に母性は大体こういうものだと頭になかに入れておいて、そこから演じるというのとは違いますか?」

玉三郎さん「どちらかというと父性を女にしただけです。父性を側だけ女にした感じです。愛情だけでは母性になり難いです」

齋藤氏「女らしさは時代によって基準が違うと思うのですが、どこでそれを掴むのですか?」

玉三郎さん「究極は想像力ですね」

齋藤氏「浮世絵をお好きだと思うのですが、その形から入るのですか?」

玉三郎さん「その絵を見ながら想像しながら、例えば取り乱した時、悲しんだ時を想像しながらやってみるのです。浮世絵は江戸時代の女性の本質を捉えています。お客様には失礼な言い方かもしれませんが、例えば鎌倉時代の女性がこう泣いただろうと納得するのは妄想と誤解なのです。しかし、さもありなん、と納得させるのが我々役者の仕事です」

齋藤氏「観客が慣れてしまって、その想いをちょっとずらしてやろうという気にはなりませんか?」

玉三郎さん「それはありますが、真実はこちらだよという思いがないとできません。それでお客様が納得してくだされば真実はあちらにもこちらにもありません。本当は真実はないのだと思います。納得できる幻想を抱くしかないと思います」

さらに続く対談につきましては、追って(その三)にまとめるようにいたします。
【2013. 06. 09 (日)】 author : 六条亭
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『坂東玉三郎講演会ー演じるということ』ー明治大学リバティアカデミー講座受講記(その一)


昨日7日(金)に明治大学リバティアカデミー講座で開催されました『坂東玉三郎講演会ー演じるということ』に参加受講してきました。オープン講座ということもあり、 会場となったアカデミーコモン3Fアカデミーホール(定員約1200席)は満員となっていました。

講座開催の情報を得てから私もすぐにネットで受講申し込みしていました。何しろ人間国宝の玉三郎さんの講演会が無料で受講できるのですから、こんなありがたい機会は滅多にありません。少しでも前方のよい席に座りたいと多くの熱心なファンの方が早くから詰めかけていたようです。講演会は18時〜19時30分の予定でしたが、幸いにして予定より早く16時45分頃から五十音順に別れて先頭から受付が開始されて入場、前方の席をと探したら最前列に座ることができました。

開会前は舞台中央に講師用机(演台)があるので、てっきり最初は玉三郎さんがそこで一人で講演するのかと思っていました。その後多くの著書やテレビ出演でも有名な齋藤孝教授(以下、齋藤氏と言います)との対談になると予想。しかし、時間通り開幕すると舞台上には上手に玉三郎さん、下手に齋藤氏が相対して座る対談形式の配置になっていました。

齋藤氏が玉三郎さんを紹介して、今日は玉三郎さんが大学に来ていただくという貴重な夜になりました。大学生よりも年齢が高く濃い歌舞伎ファンの方もいらっしゃると思いますが、学生さんに対して玉三郎さんのメッセージもあるようですから学生さんが主賓です。元気よく反応してもらいたい、また後ほど対談というかインタビューをさせていただきます、と挨拶されて一旦引っ込まれました。

以下は玉三郎さんが演題である「演じるということ」について話されたことの要約です。簡単なメモと怪しくなった記憶にのみ頼って書いていますので、もし会場にいらした方で間違いに気付かれた方は是非ご指摘ください。

実は演じるということは小さい時から本能的にやってきたことなので、仕事として役者になってから後から裏付けとして理論を勉強したところがあります。元々できていたものを後から先生方や書物や絵画などから理論付けたようなものです。自分は人前でしゃべることが苦手です。舞台では台本が書かれているものをしゃべっているだけですから、理論立ててしゃべるのは難しいです。齋藤先生のような多くに方にインタビューされている方から質問いただくことによってお話ができるにではないかと考えています。それでも苦手ながらに演じるということについてお話しします。

演じるということは、他人になる気持ちが一番始めにあったと思います。自分ではないものになったようなつもりの自分がいて、暑い、寒い、悲しい、嬉しい、という自意識のない自分がいる、その差のなかで自分を確認する作業なんだと思います。自分の本当の感情がどこにあるのかにこだわりがあって、他人になって自分を客観的にみて、確認している作業ではないかと思っています。

なぜ人の前でやるのか?ですが、観客の方も演じる本人も自己との対話ーコミュニケーションをとっていると思います。自分はどちらかというとさみしがりであったかもしれません。そして、他人に会うのが恥ずかしくて他人に成りすまして大勢の人に会ってコミュニケーションをとって生きているという実感を得ていました。それで満足してその日を終る。また明くる日になると不安になり、また他人になってお客様の反応をみて自分はこういうことだったと確認して自分に戻ってゆく。演じるということはそういうことなんだと根本的に思っています。ですから、俳優でない皆さんも普段と違う服を着飾って出かけ、家に戻ってその服を脱いだとき自分は何だったのか?と思う時があると思います。それはひょっとして演じていることの一部なのかもしれません。という意味で現代の生活はハレとケの境目がはっきりしなくなっている、自分を再確認しにくい社会になっている。ひょとしたら自分は役者をしながら自分探しをして、とうとう探せないで終るのではという気もします。

もう一つ大事なことは、演じるということは簡単に言うと喜怒哀楽の再生なのです。本当に喜怒哀楽がないところにあったかのようにすることが俳優の仕事、それが嘘に見えないようにする。喜怒哀楽のスウィッチがどこにあるかをしっかりと確認する作業が稽古であり、修行なんです。役者なら見ておけという言葉がありますが、役者はとにかくいろいろな人とものをたくさんよく見てインプットしておく。 見たときの感情を溜め込んで記憶しておき、必要なときはそれを取り出せる、それが俳優の専門的な仕事でしょうし、そのスウィッチが的確にオンオフができて、かついろいろな種類を持っている俳優がいい演技ができるのではないでしょうか?

もう一つ、その感情に見合う形、的確な形をそのスウィッチを押した感情に的確にはめられるかどうか?スポンジを例にして説明できます。自然に行われる感情は形とピッタリと同じになっています。役者はそうでなくてはいけません。(室町時代の人の感情を見せる例を説明)。これがお客様の前では役者は本能でやっていると思われるほど自然でなくてはいけません。 非常に素晴らしい技術の俳優だなと思われたらお仕舞いです。

もう一つ、戦後海外文化が流入してきてそれを自分達のベースになってしまった日本語は以前とは変わってしまっています。演技の形態も同じです。演劇学校で勉強するものは「反応」です。自分のHPに書いていますので、お読みになった方も多いと思いますが、五感で理解し、感受して、浸透し、反応することが大事です。今では反応ばかりで、プロセスが省かれてしまっています。ゆっくりと反応する時間が重要です。役のキャラクターによって反応するタイミング、テンポが必要です。そのためには本をよく読み、作者の人生を知ることです。

玉三郎さんが単独で話されたことの要約は以上です。続く齋藤氏との対談はまた追って書きます。
【2013. 06. 08 (土)】 author : 六条亭
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『御存 鈴ヶ森』『助六由縁江戸桜』ー杮葺落六月大歌舞伎初日第三部観劇雑感
いつもならば初日はできる限り通して観劇しますが、3日はあいにく月曜日のため仕事の都合で第三部のみ観劇しました。こういう時は三部制で午後6時開演はありがたい。通常公演の場合概ね午後4時または4時30分開演ではお勤めの方は平日の観劇はまず無理でしょう。もちろん半休制度以外にも時間単位に有給休暇を取得できる制度も徐々に浸透してきているとはいえ、平日観劇できる層は家庭の主婦やリタイア組に限られてしまうでしょう。私はかねがね自分の体験から男性の歌舞伎ファンを増やすためには二部制よりも三部制が相応しいと考えています。興行上解決しなければならない問題点は多々あるかとは思いますが、ぜひとも三部制導入を真剣に検討してもらいたいと切望しています。

閑話休題、以下初日第三部の雑感です。

『御存 鈴ヶ森』

梅玉の白井権八は瑞々しい若衆ぶりが健在です。こに役はほとんどが大勢の雲助たちとの所作立てです。それを梅玉は美しく見せます。勘九郎襲名公演の時に亡き勘三郎が見せた水も滴るような権八が脳裏に焼き付いてしまっていますが、梅玉の権八も当り役の名に恥じないものです。

今回の幡随院長兵衛は幸四郎。黙阿弥の世話物に積極的に取り組んでいる成果でしょう、違和感は少なかったです。ただし、台詞回しはまだ少々重さを感じました。

『助六由縁江戸桜』

十二世市川團十郎に捧ぐとの角書きがありますが、もともと團十郎が助六を演じることが発表されていたものです。急逝にともない、杮葺落公演の他の役は菊五郎、幸四郎、吉右衛門が代わりを務めましたが、この助六だけは歌舞伎十八番であるため、息子の海老蔵が務めることになった経緯があります。

海老蔵が不幸にして亡くなった父團十郎に代わり一所懸命務めます、とは幕開きに板付きで幸四郎が述べた口上です。その期待に応えるように海老蔵は溌剌として、活きのよい助六を見せました。もちろん、まだまだ粗削りです。しかし、この助六は不思議とその粗さがプラス面に働いています。源氏の重宝友切丸の行方詮議のため吉原で悪態をつき相手構わず喧嘩を売っている男伊達という役が今の海老蔵とぴたりと重なりあっているからだと思います。

台詞回しが不安定な部分が散見されるのは相変わらずです。常に指摘される点ですが、高音部が裏返ったり、低音部を変に強調するのは感心しません。しかし、それらを越えて海老蔵の助六は荒ぶる魅力が一杯なのです。

周囲が豪華な配役でガッチリと海老蔵を支えます。さよなら公演の最後の演目と同じ配役も多く、安定感は抜群です。左團次の髭の意休は今この人をおいて他には考えられない適役です。東蔵の曽我満江も情のある母親です。菊五郎の白酒売新兵衛は柔らかさといい、愛嬌といい、助六とよい対照になっています。市蔵・亀蔵の松島屋兄弟も名脇役言えます。

揚巻は福助。どうしても玉三郎の揚巻と比べて観てしまうのですが、よくやっていると思います。ただ、悪態の時顔の表情が歪むように見えるのはいかがなものか?と疑問です。七之助の白玉はやや冷たさのある美しさです。

吉右衛門のくわんぺら門兵衛が芸域の広さを見せるような憎めない悪役ぶりです。又五郎の朝顔仙平とともに秀逸です。菊之助の福山かつぎが前月に花子を踊った役者と同じとは思えない粋で爽快な役になっています。

さて、三津五郎の通人が傑作です!これまたどうしてもさよなら公演の勘三郎の通人の自在さ・洒落っ気を思い起こしてしまうのですが、勝るとも劣らないものです。笑いの取り方は自然ですし、花道へ行ってから、海老蔵の長男誕生を祝い、市川家の跡継ぎができたことを歌舞伎のために喜び、亡き團十郎が星となってこの舞台を観ているでしょう、とホロッとさせます。股くぐりもじぇじぇと驚き、菊之助結婚祝いと言って笑わせます。海老蔵のブログ更新ネタも面白かったですね。

やはり歌舞伎十八番に相応しい、これぞ歌舞伎!という舞台は一幕見でもよいので、ぜひ多くの方々に観ていただきたいものです。
【2013. 06. 07 (金)】 author : 六条亭
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